PATRONE パトローネ 護民官ルフィ&ワイリー 伊豆平成 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)伊豆平成《いずのひらなり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|から竿《フレイル》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)扉の向こう側[#「扉の向こう側」に傍点] ------------------------------------------------------- 〈カバー〉 新米の美少女護民官ルフィが受けた任務は�ロマヌアの悪魔�と称される凄腕の泥棒・ワイリーを護送すること。初めて見た彼は意外といいヤツそう? でも、でも甘かった…この任務、一筋縄じゃいかないっ! 道中、あたしたちの命を狙い刺客たちがつぎつぎと襲いくる。そして、偽ワイリーの影も見え隠れして…。キュートな護民官ルフィとニヒルな泥棒ワイリーの波乱含みの旅が始まった! ちょっぴり異色の痛快娯楽捕り物帳。 ●伊豆平成《いずのひらなり》 10月6日生まれの天秤座。A型。ゲーム界唯一の秘密結社、G∴M∴L∴(ゲムル)所属の謎のメカ侍。 日本バカカード協会(http://www.avis.ne.jp/~orient/foolcard.htm)会長。座右の銘は「メカ侍でも、生き血は赤い!」。 拙者の主な原動力はコーヒーと音楽だが、今回は「K&Y」のコーヒー豆(銘柄はマンダリン)約4kg(愛用の『トトロのカップ』で約800杯分に相当)と、サイバスターの「戦士よ立ち上がれ」、ゾイドの「Wild Floowers」、リリカの「勇気を忘れない」、「巨獣特捜ジャスピオン」や「COOL RUNNING」や「アイアン・ウィル/白銀に燃えて」等のサントラ、その他の音楽から知恵と勇気を分けてもらった。 [#改ページ] PATRONE パトローネ Curatio vulneris gravior vulnere saepe fuit, sed justi et tenaces propositi. Luffie & Wylie 護民官ルフィ&ワイリー Hiranari Izuno 伊豆平成 [#改ページ] [#中央揃え]PATRONE [#中央揃え]Luffie & Wylie [#中央揃え]by [#中央揃え]Hiranari Izuno [#中央揃え]Copyright c 2001 by Hiranari Izuno [#中央揃え]First published 2001 in Japan [#中央揃え]by [#中央揃え]Kadokawa Shoten Publishing Co., Ltd. [#改ページ]  CONTENTS   プロローグ  第一章 悪魔の道連れは小娘  第二章 陰謀の予感  第三章 ライモードの罠  第四章 ファブリアーノ  第五章 ヘルドア  第六章 錆色の血族  終 章 任務の終了   エピローグ   あとがき 口絵・本文イラスト OKAMA 口絵・本文デザイン 滝澤孝司(META+MANIERA) [#改ページ] 決して侮らぬこと。たった一匹の小さなネズミが、船を沈め、時に国を滅ぼすのだ。 ただし怖がりすぎぬこと。その小さく強《したた》かなネズミは、時にあなたを救う騎士《ナイト》にもなる。 [#地付き]「ヴェニゲの書」 大王が海賊に「海を荒らすのはどういうつもりか」と問うたとき、海賊は少しも臆することなく、「陛下が全世界を荒らすのと同じです。ただ私は小さい船でするので海賊と呼ばれ、陛下は大艦隊でなさるので、皇帝と呼ばれるだけです」と答えた。 [#地付き]アウグスティヌス「神の国」 [#改ページ]  プロローグ  ワイリー・マイスは、自他ともに認める脱獄の名人だ。  泥棒稼業にしか役立たない、ある特異な才能に恵まれ、城でも牢屋《ろうや》でも自在に出入りできる。  だが、彼はもう長いこと一人では決して抜け出せない牢獄」に捕らえられていた。  悪夢という名の牢獄に……。  おいおい、またかよ?  自分は寝床で目をつぶったまま呻《うめ》き、苦しげに寝返りをうっているのだろう。  何度目かは知らないが、とにかくいつもの悪夢だ。  これが夢で、現実ではないとわかっても、どうすることもできない。  また、あの夜に戻されていた。  何もかも見捨てた自分が、一人だけ馬に乗って逃げ出すーあの最悪の場面からだ。 「くそっ! 俺《おれ》の知ったことか! たまたま居合わせただけなんだ!」  悪態をつき、馬にしがみついた彼は、固く目を閉じる。  無駄だった。夢の中の視点は、あっという間に切り替わっていた。  背後の闇《やみ》で燃えさかる炎。  大勢の人々を縛りつける、重い鎖の音。  そして、ゆらゆらと揺れるオレンジの光に浮かんだ黒い影……。 「あいつを逃がすな。始末しろ」  冷酷な襲撃者たちの一人が、流暢《りゅうちょう》なロマヌア語で命じた。  やつらが何者なのかは、よく知っている。だから逃げるしかなかった。  そうだろ? 俺には恨まれる筋合いはない。  あのときの怨念《おんねん》だか幽霊だか知らねえが、あまりに不公平だ……。  なぜ? どうして俺につきまとう? 悪いのはあいつらじゃねえか!  いい加減にしてくれ!  こんな夢をもう、何度も何度も……何度も!  そのとき、彼の閉じこめられている暗い牢獄の鍵《かぎ》を開ける音がした。    *   *   *  最初の鍵で開いたのは、冗談みたいに大きくて頑丈な南京《ナンキン》錠だった。  これで、牢に通じる分厚い鉄の扉に巻きついていた太い鎖がはずれる。  次は、扉の右端に三つ並んだ鍵穴……三色に塗り分けられた鍵がそれぞれねじ込まれ、錆《さ》びついた金属同士がこすれあう、嫌な音がした。  牢番の手の中で、鍵束がジャラッと重そうな音をたてる。 「……ねえ、まだ開かないの?」  脇《わき》に立っていた彼女は、両手を軽く腰に当ててため息をついた。  城の地下牢なんて、どこも同じだ。ひどく蒸し暑くて、吐き気をもよおす異臭が漂っている。  明かりといえば、牢番のランタンだけ。  おまけに、そこら中で何か(ネズミかしら……?)が、ごそごそ這《は》いまわっていた。  仕事じゃなければ絶対に入りたくない場所の一つだが、幸いなことに彼女は、十六歳の少女にしては、かなり忍耐強いほうだった。 「いいですか護民官、この扉には鍵があと五つあります」  汗まみれの太った顔をゆがませて、牢番がだらしない笑みを浮かべた。  異国の若い娘と二人っきりでいる時間は少しでも長いほうがいい、そう思っているようだった。 「あとは、シリンダー錠だの罠《わな》つぎだのと色々とり混ぜた十三個の鍵つき扉が一つに、鍵が九つある鉄格子……なに、もうすぐでさ、ベルフィード・ヘイズォト護民官」  少女は、もう一度ため息をついた。 「『ルフィ』って呼んで。あたし、フルネームで呼ばれるの大っ嫌いなの。響きが変でしょ?」 「そんなことないですよ、護民官」  牢番は無難な呼び方をすると、慣れた手つきで最初の扉を開いた。  と、すぐに次の扉が立ち塞《ふさ》がる。  形、大きさともにバラバラの鍵が十三個、なぜかドアノブまで三つもある奇妙な扉——まるで、悪魔を牢獄に閉じこめる封印みたいだ。 「マスリックの地下牢って、噂《うわさ》には聞いてたけど……これほどのものとは思わなかったわ」  これほどの変態とはね! ルフィは心の中でつけ加えた。  鍵束を交換した牢番が、一本目の鍵をさし込む。 「そこは開いてるぜ……」  突然、眠たそうな声がした。扉の向こう側[#「扉の向こう側」に傍点]からだ。 「ほ、本当に開いてやがる!?」  青ざめた牢番が、へなへなと湿った床に尻《しり》もちをつく。  ルフィは眉《まゆ》をひそめてささやいた。 「どしたの?」 「あの野郎、扉の鍵を全部開けちまってる……悪魔ですよ、護民官! やつは、�針金ネズミ�は、人の皮をかぶった悪魔なんだ!」 「あ、悪魔……」  少女のほっそりした白い喉《のど》を、生唾《なまつば》が音を立てて通り抜けていく。  その悪魔を、扉の向こうにいる男を本国まで連行するのが、彼女の任務なのだ。  しっかりなさい、ルフィ! 相手は、たかが泥棒よ。鍵をこじ開けるのが、ちょっとばかし上手なだけ、どうってことないって……。  そう言い聞かせながらも、ルフィの頭の中には、ついさっき会見したマスリック王国の司法官の言葉が渦巻き始めていた。 [#改ページ]  第一章 悪魔の道連れは小娘    ㈵ 「貴方《あなた》が? 本当に貴方が、ロマヌアの護民官なのですか?」  出迎えた司法官は、腕組みをしたままルフィを見つめて言った。生粋のマスリック人らしい、青みがかった豊かな黒髪の青年——なかなかのハンサムだ。  この若さで国王の城に執務室を与えられているなんて、本当に有能な司法官でマスリックの犯罪者どもを震え上がらせているか、あるいは単に家柄が良いのか……。  ルフィは想像を巡らせた。  どっちにしても、彼が今みたいに意味ありげに見つめれば、年頃の娘たちはみんな、顔を赤らめてうつむいたり、ポーッとのぼせ上がってしまったりするのだろう。  でも、あいにくとルフィは違った。  たとえ一瞬でも、相手の口元に浮かんだ小馬鹿にしたような笑みを見逃さなかった。  このあたしが、「本当に護民官なのか」ですって?!  彼女は、ほんの少し背伸びをして、異国の色男を睨《にら》み返した。 「私がロマヌアのルストから来た護民官です。今回の囚人の受け渡し、及び、護送に関する全権を任されています。これが上司のプリニウス長官より預かった親書で……」  よしよし、完璧《かんぺき》な受け答えよ……と、自分を励ます。  これでこそ、一人前の護民官というものだ。 「なるほどね、そういう手がありましたか……」  封蝋《ふうろう》をはがし、親書に目を通していた司法官が、感心したような声を上げた。  そして、隣国ロマヌアから派遣された少女を、あらためて上から下まで眺め回す。  目の前で背伸びしている護民官には、そうするだけの価値があったからだ。  明るい灰色の瞳《ひとみ》——幼さを残した大きな切れ長の目が、挑戦的にこちらを見上げている。今は少々きつめだが、本当はもっと優しい眼差《まなざ》しなのだろう。  腰まである長い栗色《くりいろ》の髪は、鉄板のついた鉢巻で束ねられ、戦闘や捕物の際に邪魔にならぬよう、後ろで一本に編んでお下げにしてある。  色白の肌は、マスリックまでの長旅でほんのりと日に焼けていたが、かえって魅力的だった。  小振りで筋の通った鼻の右側と両頬《りょうほお》とが煤《すす》で黒く汚れているのも愛嬌《あいきょう》がある。  服装は呆《あき》れるほど武骨だった。男みたいな鎖帷子《くさりかたびら》——女の子らしさを感じさせるのは、胸当ての柔らかいカーブぐらいのものだ。  どう見たって、十六歳の少女が着る衣装ではない。  おまけに、燃えさしでもつかんだのか籠手《こて》の指先が煤で真っ黒に汚れていた。 「失礼ですが、司法官……」  彼がいつまでもじろじろと見ているので、ルフィはこういうときの決まり文句を口にした。 「私の顔に何かついてます?」 「いや、その……ええ、まあ、煤が少しばかり」 「へっ?」  やだ、朝ちゃんと泉で顔を洗ったのに……?!  慌ててゴシゴシと顔を何度もぬぐう。  彼女は、籠手の汚れに気づいていなかった。  司法官は親書で顔を隠し、笑いをこらえた。 「ともかく、お役目ご苦労さまです。ベルフィード・クレニスス・ヘイズォト護民官」 「ルフィ、で結構です」 「ではルフィ、さっそく仕事の話に入りましょう。護送する人物の素性は、ご存じですね?」  煤だらけの顔で、ルフィはうなずいた。 「ロマヌアの市民、ワイリー・マイス。ルスト生まれの盗賊……」  面識はないが、資料はある。二年前の戦争で命を落とした父が——同じ護民官だった父が、目をつけていた盗賊だ。  二年前、ルフィが正式にルストの護民官になった頃には、ワイリーはすでにロマヌアからいなくなっていた。マスリック——北方の隣国へと、仕事の場を移したのだ。 「通称�針金ネズミ�、ロマヌアから流れてきた男……」  声を潜めてつぶやくと、司法官は戸棚へと歩み寄った。  棚には奇妙な止まり木がついていて、剥製《はくせい》のようにじっとしていた数羽の伝書バトが、バタバタと騒ぎ出す。彼はマスリック人にしては珍しく、情報をこまめに集めるタイプらしかった。  ハトをなだめておとなしくさせた司法官は、罪人を引き渡すための証書の束を手にする。 「……ワイリーは、ありとあらゆる犯罪の天才と言われています」 「天才? ドジを踏んで、何回も投獄されてるって聞きましたけど?」  ルフィが言うと、彼は顔をしかめて証書を握りしめた。 「そうです。私は、あいつを逮捕するたびに昇進した……。わかりますか、ルフィ? �針金ネズミ�は脱獄の天才でもあるのです」 「だったら、また逃げ出すんじゃ……」 「今回は、その心配はありません」  城の地下牢《ちかろう》にある『特別室』から、生きて出た者は一人もいない。彼はそう説明した。 「投獄されて二ヶ月になるが、ワイリーはまだ、この城の地下にいますよ」  証書を机に広げ、インクの壺《つぼ》に鵞《が》ペンをさしこむと、司法官は顔を上げた。 「それにしても、貴方の上司はなかなかの策士ですね」 「プリニウス長官がですか?」  ルフィの言葉に、彼は机に置いた親書にちらっと目をやった。 「ワイリーは女子供には手を出さない主義です。したがって、女の子……いや失礼、『非常にお若いご婦人』の貴方は、奴《やつ》の護送にぴったりの人材だ。寝首をかかれる心配もない。まさか、こんな手があったとはね」 「それって、つまり……」  大きく見開かれた灰色の瞳が、すうっと険しくなった。  怒りが、じわじわとこみ上げてくる。  この任務に選ばれたのは、あたしがご婦人[#「ご婦人」に傍点]で、しかも子供[#「子供」に傍点]だからなの? あたしは、自分が半人前なのを証明しに、のこのことマスリックまで来たってわけ? 「あの石頭! お前にしかできない仕事[#「お前にしかできない仕事」に傍点]って、そ〜ゆ〜意味だったのね! こん畜し……」  危ういところで口を押さえ、外交の場での不穏当な発言を飲みこむ。  生まれ育ちは中流貴族でも、護民官としての担当区域は大都市ルストの下町だ。油断すると、いつものべらんめえ口調が出てしまう。 「ルフィ、どうかしましたか?」 「なんでもありません! いいから、早く証書にサインしてください!」 「は、はあ……」  彼女の剣幕《けんまく》に気圧《けお》されたのか、司法官は手早くサインを済ませて証書の束を手渡した。  これで�針金ネズミ�の身柄は、マスリックの国王からロマヌアの護民官へと引き渡されたことになる。  また少し背伸びをすると、ルフィは深々とロマヌア式のお辞儀をした。 「いろいろとご親切にしてくださって、ありがとうございました。ご協力、感謝します」 「どういたしまして」 「ところで、あの……」と、急に声が小さくなる。「もしかして私の顔、まだ汚れてません?」 「化粧室なら部屋を出て左です」  そう言って笑った司法官が、すぐに真顔に戻る。 「ですが、顔は洗わず、そのままのほうがいいのでは?」  というのも、半年ほど前からワイリーが宗旨変えをしたとの噂《うわさ》があるからだ——と、彼は説明した。詐欺や窃盗はもちろん、強盗に暗殺、婦女暴行に人さらい……�針金ネズミ�がやっていない悪事は一つもない、という噂だ。 「ふうん。でも、それがどうかしたんですか?」と、首を傾《かし》げるルフィ。  司法官は目を丸くした。 「危険きわまりない男との二人旅ですよ、何かあったらどうします?!」 「平気ですよ、馬鹿馬鹿しい」  自分に夜這《よば》いをかける盗賊の姿を想像して、ルフィはプッとふき出した。  そんな心配、今の今まで考えてもみなかった。  だが、マスリック人特有の騎士道精神を刺激されたのか、司法官はたしなめるように言った。 「いいや、美しいロマヌアの護民官を見殺しにしては、マスリックの恥です」  またしても、意味ありげな視線。  今度は睨《にら》み返したりできなかった。不意を打たれて、少しドキリとする。  頬を上気させ、ルフィはうつむいた。 「街道の警備を強化します。ルフィ、帰還ルートを教えていただけませんか?」 「はあ、今夜中にここを出て、ライモード方面へ……」  優しい言葉につられ、ついつい口が緩む。  危ういところで職務を思い出したルフィは、ハッと顔を上げた。 「部外者への旅程の開示は服務規程に反します。お教えできません」 「なるほど」  司法官がため息をついた。  ルフィは、自分の杓子《しゃくし》定規な性格がちょっぴりうらめしくなった。朝から晩まで風呂《ふろ》と法律に首まで浸ったロマヌア人——彼はきっと、そう思ったのだ。むろん、全てのロマヌア人がそうなのではない。ありがちな偏見なのだ。絶対にそんなことは……。  考えている間に、ぽんと小さな鳥かごを手渡される。  中には、二羽の伝書バトが入っていた。 「せめてこれを。国境までに困ったことが起きたら必ず知らせてください。よろしいですね?」 「……はい」と、素直にうなずく。  ここに来て、ようやく彼に好意を持ったのだ。このお人好《ひとよ》しの色男は、やって来たのが自分のような小娘でなくとも、同じように心配したのだろう。  自分は、初めての護送任務に緊張するあまり、警戒しすぎていたのではないか……? 「お心遣い、感謝します!」  さっきのような儀礼的なお辞儀ではなく、心を込めて、ぺこりと頭を下げる。  司法官は、心配そうな顔のまま言った。 「忘れないでください。ワイリーは好色で、悪魔のような犯罪者です。奴の甘言にのらぬよう、くれぐれも用心して……いいですね、ルフィ」    ㈼  ロマヌアの悪魔? 婦女暴行に人さらい?  上等じゃないの!  不安をふり払うように、ルフィは乱暴に扉を引っぱった。  錆《さ》びた金属が軋《きし》む、寒気のするような音。  奥に、鍵《かぎ》が九つある鉄格子が内側に開け放たれている。  どうやって開けたんだろう……? しげしげと鍵を見つめて、ルフィは首を傾げた。  奥は明かり一つない地下の暗闇《くらやみ》だ。  鼻をつく異臭が、一段と強くなる。  何かが這い回る気配も、ずっと増えたような気がした。  やだなあ、ネズミだったらどうしよう……と、顔をひきつらせながらも、ルフィは思い切って一歩、足を踏み入れた。 「なんだなんだ? 差し入れか?」  からかうような調子の声がした。二ヶ月もの間こんなところにいたとは思えないほど、張りがあって、よく通る声だった。 「へえ、地下牢で女が抱けるとはね。豪勢な差し入れだな」 「な、なんで、ちが……わ、私は、ロマヌア……ルストの……」  落ち着きなさいってば、ルフィ! 自分で自分を励ましながらも、もはや頭の中は「婦女暴行」と「好色な悪魔」で一杯だ。  下品な笑い声が独房に響いた。 「冗談も通じねえのか、ベルフィード護民官。おっと、ルフィだったか」 「ええっ! どうしてそれを……?」 「聞こえたんだよ。なにしろ俺《おれ》は、『ロマヌアの悪魔』だからな」 「ふざけないで!」  言うが早いか、牢番からランタンをひったくって部屋を照らす。  とたん、ゾッとするほどの数のサビネズミが、一斉に物陰へと逃げ去った。 「!」  ぶつぶつと全身の毛穴が粟立《あわだ》つのがわかる。  必死の思いで、ルフィは悲鳴を飲み込んだ。  やっぱりネズミだった! だから地下牢は嫌なのよ! 「やれやれ、まぶしいな」  せまい独房の片隅、汚い藁《わら》の山に寝そべっていた男が、ふっと笑みを浮かべた。  つい、つられて笑ってしまいそうな人懐っこい笑顔——きらきら輝く碧色《あおいろ》の瞳《ひとみ》に引き寄せられるように、ルフィは�針金ネズミ�と対面した。  彼女よりかなり年上だが、おじさん呼ばわりすると怒る——そのくらいの年齢だろう。  痩《や》せてはいるが、鞭《むち》のようにしなやかでひきしまった身体と、ぼさぼさの濃い金髪には、藁くずがこびりついていた。それに、高い鼻としまった顎《あご》。下品な態度とは裏腹に、ワイリーは彫りの深い上品な顔立ちをしていた。そこそこ魅力的といったところか。汗と脂で汚れた顔と、垢《あか》まみれの囚人服とで減った分を差し引いたとしてもだ。  ルフィは、咳払《せきばら》いをすると少し背伸びをした。  彼女は護民官なのだ。いつまでもなめられてはいられない。規則では、ここでロマヌア市民の権利と義務について確認することになっていた。 「起きなさい、ワイリー・マイス!」 �針金ネズミ�は、猫を思わせる優雅な仕草で立ち上がった。かなりの長身だ。  眠そうな瞼《まぶた》に隠された隙《すき》のない目が、ルフィのそれを正面から見おろす。真顔になると、笑顔の時とはまるで別人だった。 「ワイリー・マイス、なぜここから出られるのか、わかっているな?」  囚人は、にやりと笑ってうなずく。 「俺が偉大なるロマヌアの市民だからですよ。まったく、ありがた迷惑だ……」  ロマヌアは、粘り強い外交と巧みな通商とで領土を拡張してきた。周辺の小国が次々と帰属した理由は、この国に生まれ育った誰もが市民として認められるシステムにある。  護民官とは、彼らの利益と権利を守るための官職だった。市民に害をなす犯罪の取りしまりが主な職務だが、必要なら身分や国境さえ無視して活動できる。  たとえ外国で捕まっても(当事国がロマヌアと敵対したくなければ)、ロマヌア人は護民官による保護を要求できた。つまり、マスリックなら縛り首間違いなしのワイリーでも、故郷のルストに護送された後、ロマヌアの法で裁かれる道を選べるのだ。  基本的な事項を儀式のように暗唱すると、ルフィは権利の確認をしめくくった。 「お前はルストに連行される。途中で逃亡すれば、ロマヌア市民として一切の権利を失うのを忘れるな」 「はいはい、逃げやしませんよ」  ワイリーが肩をすくめてみせる。  あら、意外と素直ね……。マスリック人たちが言うほど、扱いづらい相手でもなさそうだ。  ルフィは、拍子抜けしたようにすとんと踵《かかと》を地面に下ろした。一本に編んだ長い髪が、ぴょんと尻尾《しっぽ》のようにはね上がる。  険しい護民官の顔から一転して優しい笑みを浮かべ、彼女は言った。 「じゃ、話はおしまい。こんなとこ、さっさと出ましょ。ネズミもいるし……」  なんだって、こんな小娘《ガキ》が俺の護送を任されたんだ?  ルフィの笑顔を見つめながら、ワイリーは首を傾げた。ずいぶん酷な仕事を押しつけられたもんだと、彼女に同情したほどだ。ルストから何日もかけて、俺のために、こんなとこまで一人で来るとは、護民官も楽じゃない……と。  しかし、素直にルストに連行されれば、敵の懐に飛びこむようなものだ。まず間違いなく命はない。当然、逃げ出すつもりだったし、そのためのプランは山ほどあった。  まあ、夜中に馬を奪うってのが常套《じょうとう》手段だが……。  目を合わせないようにして、ワイリーはさりげなくルフィを観察した。  少しばかり煤《すす》で汚れているが、彼の目はごまかせない。護民官は、なかなかの上玉だ。  さっきの冗談にドギマギしていたところを見ると、色じかけも有効かもしれなかった。  といって、乱暴する気は毛頭ない。派遣された護民官が人をぶん殴るだけが楽しみのふざけた野郎なら最初の晩に殺して逃亡するところだが、このプランはとっくに破棄していた。  どんなに荒っぽい仕事をしても、これまで女子供に乱暴したことは一度もないし、これからもそのつもりだ。ただし、だますのはべつだった。  清純で幼気《いたいけ》な護民官が、�針金ネズミ�のペテンにかかるのは、時間の問題ってわけだ……。  その、気の毒な運命にある少女が、いつの間にか目の前に立って彼を見上げている。 「まだなんかあるんですかい?」 「うん、ちょっとね」  ルフィが、気の毒そうに笑ってうなずいた。  と同時に、彼女の右手がベルトに差した短い鉄棒に伸びる。  よける隙は微塵《みじん》もなかった。抜く手も見せず、重い鉄の棒——クルクス・マヌアールスという名の護民官の武器——の先端が鳩尾《みぞおら》に叩《たた》きこまれていた。  筋肉と鉄の塊とがぶつかる鈍い音。  予想だにしない強烈な一撃!  身体が前のめりに傾くと、武器の柄についた朱房の細長い帯が目の前をかすめ過ぎた。  ほとんど空っぽの胃袋から酸っぱいものがこみ上げ、全身の力が抜けていく。 「い、いきなり、なんてことしやがんだ!」  ぜいぜいと喘《あえ》ぎながら悪態をつくと、ルフィは済まなそうに微笑《ほほえ》んでみせた。  ピンクの舌をチラッと見せて、片目をつぶる。 「ごめんなさい。あなたが縄抜けの名人だって父の日誌にあったから……痛かった?」 「な、ななっ!?」  さすがの�針金ネズミ�も、開いた口が塞《ふさ》がらなかった。  気づいたときには身体の自由がきかなくなっていた。動かせるのは首と足だけだ。  意識が遠のいた数秒の間に、彼はものの見事に後ろ手に縛り上げられていたのである。  針金を編みこんだ頑丈なロープの端は、ルフィの手にしっかりと握られている。 「くそっ、油断した……」  うまいやり方だ。脱力して意識が薄れているうちに縛られては、得意の小細工もできない。だが、彼が負けを認めたのは、そんな些細《ささい》な理由からではなかった。とんでもないミスを犯していたからだった。ルフィの本名を聞いていたというのに! 「ヘイズォト……ルストにその人ありと謳《うた》われた名護民官《パトローネ》、『鬼のヘイズォト』! あんた、まさか……?!」 「父が名護民官《パトローネ》かどうかはともかく、たしかにあたしは、あの『鬼ヘイ』の娘よ」  少しうつむいて、ルフィが言った。  ワイリーは馬鹿みたいに口を開けたまま、彼女を見つめている。  あいつ、娘がいたのか……!? 「どしたの? 行くわよ、針ネズミさん」 「ちがう! 針金だ、針金っ!」 「同じようなもんでしょ。ほら、急いで! 街の門が閉まっちゃうのよ」 「おい、そんな時間なのかよ!?」  ずっと地下牢にいたワイリーは、思わず声をあげた。マスリックの門が閉まるということは、もうじき真夜中だ。 「しかたないでしょ」  言い訳がましく、早口になるルフィ。 「馬の調達に時間がかかっちゃったの。夜明け前には次の村に着くわ」 「やれやれ……」  ロープを引っ張られて歩きながら、ワイリーは困ったように彼女の背中を見つめた。  まだ若いし、場数も踏んでいない新米の護民官。だが、あのクルクスの腕前は本物だ。  この娘、俺のことをどこまで知ってやがる? どうも嫌な予感がした。  誰かに仕組まれているような気がしてならなかった。  本人が要求してもいないのに、ロマヌアから護民官が迎えに来るなんて聞いたことがない。  どこぞの慈悲深い誰かが、俺のふりをして保護を訴えたのだ。  しかも、現れた護民官は、女で、子供で、おまけに「鬼ヘイ」の娘ときた。  これで何も起こらないはずがない。  冗談じゃないぜ、人がせっかく苦労して[#「せっかく苦労して」に傍点]、厳重なマスリックの地下牢に隠れたってのに[#「厳重なマスリックの地下牢に隠れたってのに」に傍点]!    ㈽  通りに面した商館の門が開くと、一台の馬車が慌ただしく石畳へと滑り出した。  人影のない静まり返った夜のマスリックに、車輪の音がかすかに響く。主な大通りは全てロマヌア式の舗装路なので、道幅も広く路面も滑らかで、騒音は最小限に抑えられていた。  御者が一鞭くれると、馬車はぐんとスピードを上げた。  今夜中に街を出るつもりなのだろう。機能的だが質素な、一目でロマヌアのそれとわかる荷馬車が、うっすらと漂う霧をかき混ぜて通りを南へ去っていく。  年老いた馬丁が一人、欠伸《あくび》まじりに同じ門から現れ、玄関の前に二頭の馬をひき出した。  一頭は見事な芦毛《あしげ》の駿馬《しゅんめ》、もう一頭は鹿毛《かげ》の古馬だ。  暗がりで派手なクシャミの音がして、怯《おび》えた馬たちがビクリと身体を震わせる。 「外は涼しいな、風邪ひきそうだ」  玄関先の石段にだらしなく腰掛けたワイリーが、ズズッと鼻をすすった。後ろ手に縛られたロープの先は、建物の中へと伸びている。  牢《ろう》に入って二ヶ月。季節はもう夏の初めだったが、真夜中に近いマスリックの大気は、ひんやりと湿っていた。  気がつくと、顔見知りの馬丁が馬の首をなでながら目を丸くしてこちらを見つめている。  驚くのも無理はないとワイリーは思った。目の前で縛られているのは、数ヶ月前までワインの仲買人としてここに出入りしていた男なのだ。 「お前さんが、あの�針金ネズミ�だったのかね」 「泥棒も商売の一種でね。金になる情報は、ここで手に入る」  にやりと笑って、彼はレンガ造りの質素な二階建ての屋敷を見上げた。  ロマヌアの商館は王城に近い一等地にあった。ごてごてした外装を好むマスリックの街では、看板などなくても意匠の素っ気なさからすぐにそれとわかる建物だ。  商館は、ロマヌア商人が情報を交換し、取り引きをし、安全に寝泊まりするための施設だった。国の内外を問わず、ロマヌア人の行き来する都市には必ずある。  護民官だって、国外ではこうした商館を頼りにした。ここなら、物資の調達も宿泊も、現金が必要ない。支払いは全て帳面に書きつけられ、あとでまとめて国庫に請求されるからだ。  月明かりに目を細めて馬を見比べていたワイリーが、鼻を鳴らした。 「ふふん……あの娘、ここで一番良い馬と悪い馬を選んだか」 「ほう、よくわかるな」と馬丁。 「手広くやってる。馬泥棒だってやらんでもないさ」  自慢した拍子に、つつっと鼻水が垂れる。 「やれやれ、ハンカチ持ってないか?」 「ああ」  ボロ布を手にした馬丁が、彼の鼻をふいてやろうと近づいた。 「触っちゃダメ!」  鋭い声が響く。  玄関先にルフィが立っていた。 「この男は危険です。手を触れないで」 「なんだよ、人を毒蛇かなんかみたいに……」  呆《あき》れ顔のワイリーに構わず、彼女は布を手にすると少々乱暴に彼の鼻をふいた。 「お待たせ。準備ができたから出発するわよ」 「準備だ?」 「護送ルートの確認をしてたの」  ひょいと身軽に馬にまたがるルフィ。もちろん、芦毛のほうにである。 「で、俺はどうすんだ?」  鹿毛の馬を横目に見ながらワイリーが聞くと、彼女はにっこり笑って言った。 「そっちの馬に乗ってもらうわ。ただし、逃げられないようにね」 「……あのな、護民官」  ワイリーの声は、情けないというほどでないにせよ、うんざりとした響きがあった。  門を通ってから、これで三度目の抗議だ。 �針金ネズミ�は、縛られたまま馬に乗せられていた。それも後ろ向きにだ。  支給された厚い木製のサンダルを履いて、逆向きの鐙《あぶみ》に突っかけている。  ロープを手にしたルフィは、すぐ後ろに馬をつけていた。逃げようと馬を走らせても、ワイリーは落馬するだけだ。 「俺は夜通しこうなのか?」 「まさか、夜通しなんかじゃないわよ」  油断なく彼を見張りながら、首を振る。 「助かった……」  ワイリーがホッとした顔で言ったので、彼女は少しばかり同情しながらつけ加えた。 「つまり、今夜だけじゃなくて、ルストに着くまでずっとそのままって意味よ」 「んなっ……あんた鬼か?! あ、そうか鬼ヘイの娘か……鬼かもな」 「あたしはあたしよ、父とは関係ないわ!」  いやな奴《やつ》! さっきから父の話ばっかり……!  暗い気分になったルフィは、上目づかいに�針金ネズミ�を睨《にら》みつけた。  月明かりの中で、睨み合う二人。  どこかで、フクロウの鳴き声がした。冷たい風が、枝をならして通り過ぎていく。  乗り手の争いをよそに、縦に並んだ二頭の馬はのんびりと歩を進めていた。  まばらに砂利をまいただけの森の小道が、うねうねと曲がりくねって続いている。  街を出てしばらくして、ルフィは大きな街道をはずれ、森の中の間道に馬を進めていた。  行きに使った正規のルート——ロマヌアが隣国に資金と技術を提供してまで整備している表街道——を避けた理由は、彼女にもわからない。上司の指示にしたがってのことだ。  睨むのをやめたワイリーが、馬の尻《しり》に身を乗り出した。 「悪いことは言わねえ。今すぐ俺の手を前に縛って、普通に馬に乗せるんだ」 「馬鹿なこと言わないの」 「逃げやしない、死にたくないだけだ。物騒なんだよ、この道は……!」 「�紅の羽根�が出るから?」 「うっ……そ、そうだ」  ぺらぺらとまくしたてていたワイリーが、驚いたように口を閉じる。  ルフィは余裕の笑みを浮かべた。  帰り道のことは、きちんと商館で調べてある。�赤毛のハッグ�なる頭目に率いられ、この森を根城に辺りを荒らし回っている山賊だ。徒党を組み、弓矢で旅人を襲うらしい。  だから、馬を飛ばして逃げられるよう前向きに座らせろ——彼はそう主張しているのだ。 「じゃ、取り引きしましょ」とルフィ。 「条件によるな」 「どうやって地下牢の鍵《かぎ》を開けたのか教えてよ。そしたら言うとおりにしてあげる」  あのときはそれどころではなかったが、ずっと気にかかっていたのだ。  独房にいたワイリーが、外づけの錠前を開けるのは物理的に不可能だ。彼が魔術師《マギ》なら魔法という手もあるが、鍵には全て魔除《まよ》けが施されていた。いったいどうやって——謎《なぞ》解きは大好きだし、得意なつもりだが、こればっかりはいくら考えてもわからない。  わくわくして解答を待っていると、しばらく唸《うな》って考えこんでいた�針金ネズミ�は、やがて恨めしそうに首を振った。 「いや、やっぱダメだ。あれは職業上の秘密にかかわる」 「なによ、ケチねえ」 「……じゃなくて! 山賊はどうすんだよ」  ルフィは笑いを堪《こら》えた。彼のほうがマスリックの地理には明るいかも知れないが、なにしろ二ヶ月のブランクがある。 「あなたが牢にいる間に�紅の羽根�は壊滅したそうよ」 「嘘《うそ》だろ。ハッグの野郎が、あの軟派な司法官の手に負えるわけがねえ」 「彼のことを悪く言うもんじゃないわ」 「はは〜ん、早速あいつにたぶらかされたか。マスリックの貴族は情熱的だからな……」 「ちがうわよ!」  赤くなった頬《ほお》を隠して、ルフィは横をむいた。 「司法官は関係ないの。�紅の羽根�は他の山賊に潰《つぶ》されたんだから」 「さ、最悪じゃねえか!」  ワイリーが叫んだとたん、絶妙のタイミングで背後から蹄《ひづめ》の音が上がった。  ルフィは来た道をふり返って目を細める。  見えるのは、暗い森だけ……。  だが、何者かが集団で迫っているのは確かだった。  砂利をはね飛ばし、もの凄《すご》い勢いで馬を飛ばしてくる。 「なんなの……?」 「山賊に決まってんだろ。くそっ、顔見知りのハッグなら、まだ交渉できたものを」  ため息まじりに、ワイリーが軽く馬の腹を蹴《け》った。鹿毛が短く嘶《いなな》いて走り出す。  ロープが伸びきる前に、ルフィも慌てて馬を急がせた。  たちまち、激しい蹄の音が二重奏になる。 「なんで? �紅の羽根�はいなくなったのに……」 「このヘボ護民官! 今の話のとおりじゃ、他の山賊どもに縄張りが変わっただけだろが!」 「あっ……」  自分の愚かさに打ちのめされている暇はなかった。  殺気に満ちた一団が、ぐんぐんと迫っているのだ。  このまま逃げても、いずれ追いつかれる。  踏みとどまっても、一人ではワイリーを守りきれない。  どうしよう……。 「おい、ルフィ!」  前を走るワイリーが、彼女の肩越しに暗闇《くらやみ》を見つめて叫んだ。 「な、なによ?」 「敵は四騎、弓は持ってないようだ。人数は多かないが、どうも俺たちをぶっ殺したいらしい」  さすがに夜目がきくわね……と、軽口を返そうとしたとき、耳元で次々と剣を抜く音がした。  心臓が口から飛び出そうなくらい、胸の鼓動が激しくなる。  左右と真後ろに追いついた山賊たちは、馬を止めろとも、金を出せとも言わなかった。  三方からの殺気を感じつつ、ルフィはクルクス・マヌアールスをひき抜いた。  朱房の帯を手首に巻きつけ、ぎゅっとグリップを握りしめると、ようやく勇気が湧《わ》いてくる。  夜目はきかなくても、殺意をむきだしにした奴が相手なら目をつぶってでも戦えるのだ。 「やめなさい! あたしはロマヌアの護民官よっ!」  一応、叫んではみたが効果はなかった。  無言のまま、右側の敵が剣を斜めに斬《き》りおろしてくる。 「甘い!」  クルクスを相手に、あまりに不用意な一撃だった。  受け止めず、相手の力を利用する——ルフィは教本通りに身体を動かした。  鉄棒から十字架状に出た突起で剣をはさんで手首を返し、同時に左手で馬の手綱を絞る。攻撃の勢いは殺さず、方向だけをずらしたのだ。  得物が衝突した瞬間、黒衣に身を包んだ山賊は馬から転げ落ち、地面に激突していた。  自分が斬りおろした勢いで鞍《くら》を飛び出したのである。さらにその上を、ルフィの馬が蹄で踏みしだいて通り過ぎる。  まず一人……ホッとしたとたん、左手がグイッと引っ張られた。  ロープだ! 「なにやってんだよ!」  前方から�針金ネズミ�の声がした。  手綱を握ってないワイリーは速度を緩められない。二人の間で、曲芸の綱渡りのようにロープがピンと張りつめていた。  自分は今、片手が伸びた状態で敵に囲まれているのだ……そう気づいたときは遅かった。  左と右後方とから斬撃《ざんげき》が降ってくる。  間に合わない! 胃の辺りが冷たくなって、全身から汗が噴き出す。 「こらえて、ワイリー・マイス!」  叫ぶなり、ルフィはさらに速度を落とした。 「た、たいしたもんだ……」  不安定な姿勢で馬に揺られながら、ワイリーはごくりと唾《つば》を飲んだ。  正直いって、ルフィの判断力と度胸には舌を巻いた。  得物で受けられないと悟った彼女は、あえて斬撃の内側へと馬を下げたのである。  予想外の動きに、左からの剣は目標を見失って空を切り、もう一人は、剣を握った手元の部分でルフィの背中を殴りつけていた。  辛うじて致命傷をかわしたものの、背中への一撃で息が詰まったのか、馬が右によれる。  ルフィの身体は小道からはみ出ていた。バリバリと鎧《よろい》に木の枝がぶち当たる音が響く。  当然、ワイリーは斜めに引っぱられる。落馬寸前だ。 「護民官! ロープ、ロープ! ロープだ! ロープを離せ!」 「い……や……よっ!」 「ったく、あのクソ親父に似て、強情な娘だな」  文句を言いながらも、ワイリーは必死に両足で馬の背をはさんでこらえる。  なんとか馬を中央に戻したルフィは、肩で息をしていた。  チャンスとばかりに追いすがった残りの二騎が、はさみ撃ちで矢継ぎ早に攻めたてる。  敵も用心しているらしく、ルフィもさっきのような完璧《かんぺき》な防御はできなかった。  一瞬の隙《すき》をついて、山賊たちが左右から同時に彼女の首筋を狙《ねら》って剣を払う。 「くそっ!」  左脚を鐙から離すと、ワイリーは慎重に狙いをつけて蹴り上げた。  はいていたサンダルが、うなりを上げて飛んでいく。  重たい木の塊は、鈍い音をたてて激突した……ルフィの右手にだ[#「ルフィの右手にだ」に傍点]にだ!  苦痛に呻《うめ》いた彼女の手から、クルクスがぽろりと落ちる。 「そんなっ!」  頼みの武器が地面に落ちる前に拾おうと、素早く身を屈《かが》めるルフィ。  がきん! と、彼女の頭上で激しい火花が散った。  山賊たちの剣が、左右からぶつかり合ったのである。  剣が通り過ぎるのとタイミングを合わせるように、すっとルフィが身体を起こす。  彼女の右手に、クルクスはなかった。 「なにするのよっ!!」  と、こちらに怒鳴っておいてから、無造作に右手を振るう。  ぶん! と風を切る音がした。  右にいた山賊が悲鳴を上げ、顔面を血に染めて馬から落ちていく。  届くはずのない遠い間合いで、重たい鉄棒が彼の鼻を砕いたのだ。  手首に巻いた帯でつながっていたクルクスが、一回転してルフィの手に戻ってくる。 「馬鹿っ! 死ぬかと思ったでしょ!」 「すまん」  彼女が思った通りに反応してくれたので助かったが、自分がドジを踏んだのは確かだった。  左の山賊がルフィの背後に回りこみ、剣を投げ捨てて短剣を抜いているではないか。  本当なら、あいつも片づけていたんだが……。  ワイリーは、にやりと笑った。 「悪かった。狙いがそれたんだ……」 「えっ?」  ルフィがまさかという顔をしたときには、彼はとっくに右のサンダルを飛ばしていた。  今度は狙い通り、彼女の左手に命中してロープを叩《たた》き落とす。 「護民官、右によけろ!」  叫ぶが早いか、彼はあっさりと馬の背に立ち上がっていた。 「ワイリー・マイス!」  彼が跳躍してからの数秒間、ルフィは、サーカスの観客みたいにポカンと口を開けたまま、�針金ネズミ�を目で追っていた。後ろ手に縛られた泥棒が、ふわりと自分を飛び越え、山賊に体当たりしたのだ。  相手が猛スピードで向かってきているとはいえ、とても人間|業《わざ》ではなかった。  蜘蛛《くも》みたいに細長い足をサッと折り曲げて馬の首をやり過ごすと、尖《とが》った両膝《りょうひざ》から、標的めがけてダイブする。  ルフィの目には、驚きにひきつった山賊の顔と、手にした短剣が見えた。  膝蹴りが胸板に炸裂《さくれつ》する恐ろしい音。  もつれ合って馬から落ちた二人が、ごろごろと地面を転がって遠ざかっていく。  身軽になった山賊の馬に追い抜かれて初めて、ルフィはようやく我に返った。手綱を引いて馬を止め、静けさを取り戻した森の中へと戻る。  遠くからワイリーの声が聞こえてきた。 「よかった、死んでないみたいね」  少しホッとして、胸をなで下ろす。  暗くてよくわからないが、彼のほうが山賊を押さえつけているらしかった。 「目的はなんだ?」 「ま、待て、�針金ネズミ�。俺たちゃ、あんたを助けに……」 「そうやって言えば、お人好《ひとよ》しの俺が信用するとでも教わったか?」  ゾッとするほど冷たい声で、ワイリーが言った。  まさか殺すつもりじゃないでしょうね?! ルフィは慌てて馬を降りて駆け寄った。  仰向《あおむ》けに倒れた黒衣の男に、ワイリーが馬乗りになっていた。どうして縛られた男の言いなりなのかはわからないが、山賊は怯《おび》えきっている。 「誰の指図か教えろ。ここを剔《えぐ》られたくなかったら……」 「そこまでよ、ワイリー・マイス」  声をかけつつ、ぽんと肩に手をやると、�針金ネズミ�が驚いた顔でふり返る。  ルフィが、もの凄《すご》い殺気を感じたのはそのときだった。 「気をつけて! 森に誰かいるわ!」  空気を裂く甲高い音。  ルフィとワイリーは、同時にその場から飛び退《の》いた。  逃げ遅れた山賊が、ゲッと声を上げて動かなくなる。  彼の左胸には、真《ま》っ赤《か》な羽根のついた矢が深々と突き立てられていた。 「ひどい、仲間を射《う》つなんて……」 「まだ動くな」 「わかってるわよ」  二人して、じっと木の幹に身を寄せていると、やがて木立の奥で馬が遠ざかる気配がした。  仲間の口を塞《ふさ》いで、退散したのだろう。 「どうやら、助かったみたいだな」  ワイリーがつぶやく。  ルフィは、答える代わりにホッと息を吐いた。強張《こわば》っていた身体から力が抜けていく。 「�紅の羽根�の使う矢だ。残党が仲間にいたのか……」  先に木陰から出た�針金ネズミ�が、後味が悪いという顔で死体を見おろしていた。  あたしのヘマだ……。馬の手綱を引いて小道に出たルフィは、すっかり落ち込んでいた。山賊がいると気づいていれば、コースや時間帯を変えられた。それに、撃退はしたものの、捕虜の口を封じられてしまった。  倒したのは三人だけ——ワイリーは敵が四騎いると言っていたのに、油断していた。敵はもう一人いたのだ。殺気を隠すことのできる手練《てだ》れが……。  マスリックに着くまでは順調だったのに、なんで護送を始めて数時間でこんなことに?  もちろん、自分の責任だ。でも、なんかひっかかる……ルフィは首を傾げた。  落ち込んでばかりはいられなかった。どんなときでも、怯えたり後悔してばかりでは優秀な護民官とはいえない。  彼女は、ワイリーを見上げて言った。 「怪我《けが》はないみたいね」 「運が良かった。こいつがクッションになったからな」  泥棒が、ちらっと山賊の死体に目をやる。 「サンダルを飛ばしたときは、てっきり逃げるのかと思ったわ」 「縛られたままでか? 山賊に追われてるのに?」 「でも、この男は、あなたを助けに来たって言ったのよ」 「見ず知らずの野郎が『お前を助けに来た』って言ったら信じるか?」 「もちろんよ。相手が善良な市民ならね」 「長生きできねえタイプだな」  なによ! と、言い返そうとしたルフィは、ワイリーが巧みに話題をそらしたのに気づいた。  山賊が何者かを問いただされるのを避けたのである。 「いいわ、議論はおしまい」  ルフィは言った。  聞かなくても、わかることは幾つかある。例えば、護民官を殺してでも�針金ネズミ�を襲おうとしている者がいること、そして、ワイリーには何か心当たりがあるが、それを隠したがっていることーといったところだ。 「聞きたいことは山ほどあるけど、森を出てからにしましょ」 「賢明な判断だ」 「でも、短剣は没収しますからね」 「なんのことだ?」 「さっきまで、彼が持ってた[#「彼が持ってた」に傍点]短剣のことよ」  ルフィは死体の右手を指さした。山賊の手から得物が消え失《う》せている。  ズボンにあいた切れ目も見逃してはいなかった。ワイリーは奪った短剣を、彼の股間《こかん》に突きつけていたのだ。 「逃げようなんて考えないで」 「仰せの通りに、護民官」  軽く舌打ちして、ワイリーがくるりと後ろを向く。  ルフィは彼の手から短剣をもぎ取って、ベルトにはさんだ。 「さ、急ぎましょ。あと少しでライモードよ」 「いいけど、どうやって俺を馬に乗せるつもりだ?」 「乗せるもなにも……あなたの馬、逃げちゃったじゃない」 「えっ?」  慌てて見回しても、彼に背中を蹴《け》られた鹿毛《かげ》はどこにも見あたらない。 「歩いてもらうしかないみたいね」  ワイリーが何か言うより早く、ルフィは自分の芦毛《あしげ》にまたがっていた。  むろん、ロープの端はしっかり握っている。 「こんなことなら、あいつらに助けてもらうんだった?」  からかうように言って、ワイリーに笑いかけたルフィは、思わず息を飲んだ。  彼が真剣な顔で首を横に振ったからだ。 「殺されるよりゃ、歩くほうがましだ……」  ワイリーは、暗い顔でぼそりとそうつぶやいた。 [#改ページ]  第二章 陰謀の予感    ㈵  こりゃ、歩くより死んだほうがましだったか——。  ワイリーは早くも前言を撤回したい気分だった。 「ったく、何だってここの砂利はこんな尖《とが》ってんだ?」  一足ごとに、サンダルをなくした素足に砂利が食い込む。  森を抜けても、ルフィは後ろを気にしながら黙々と馬を進めていた。こっちが徒歩なのを気にかけてくれてはいたが、山賊の追撃が心配なのかどうしても早足になる。  おかげで、ときおり勢いよくロープを引かれ、馬のあとを小走りに追わなければならない。 「この、くそったれが!」  なにしろ、馬のあとについて歩いているのだ。馬は生きているから糞《ふん》もする。油断していると、ときおり、石どころか「温かくて軟らかい物」を素足で踏んでしまう。  旅は、今までよりはるかに不愉快なものとなっていた。 「だいたい、こんな裏道を選ぶのが悪い。治安も路面も最悪だし、ルストへ行くにしたって遠回りじゃねえか……」  ぼやいていると、馬上で何かやっていたルフィが、ふり向かずに答えた。 「命令なんだからしかたないでしょ。あたしが思うに、長官はあなたが逃亡しにくいルートを選んだのよ」 「たしかに、俺《おれ》は田舎が嫌いだよ」  田舎には、何もないからだ。都市か、せめて城塞《じょうさい》でないと困る……。 「こうして西回りで行くと、大きな街はヘルドア一つですからね」 「ヘルドア、か……」  遠い記憶を探るように、ワイリーは目を閉じた。  国境の都市ヘルドア——ロマヌアの手前にあるマスリック人の港町である。知り合いも多い、馴染《なじ》みの仕事場だ。嫌な予感がさらに強まったような気がした。  厄介なことになる前に早いところ逃げ出すべきだが、ルフィは思ったより抜け目がない。それなのに�針金ネズミ�を連れて歩くのがどれほど危険か、全くわかっていないときているのだ。  頼みの綱はこれだけか……。  ワイリーは、さっきの襲撃での戦利品——中指ほどの長さの針金の切れっぱし——を手の中で転がした。短剣を取り上げられる前、彼はロープを切ろうとしていた。そのとき、編みこまれた針金の一部を切断したのだ。それを小さく巻き取って手の内に隠してある。  たとえ針金一本でも、彼には心強い味方だった。特に、ライモードのような田舎では……。  考え込んでいた彼の耳元で、バタバタと鳥の羽音がした。  馬を立ち止まらせたルフィが、すぐ脇《わき》にいる。鞍袋《くらぶくろ》と一緒に下げてある鳥かごの中で、伝書バトが笛のような鳴き声をあげた。  彼女は、ランタンの明かりで小さな紙に携行用のペンを走らせている。 「なにやってんだ?」 「報告しておくのよ。山賊のことをね」とルフィ。  ワイリーは顔色を変えて詰め寄った。 「誰にだ? おい、誰に知らせるつもりだ!?」  答えようとせず、ルフィは書き上がった手紙を筒にして伝書バトの足に収める。 「頼んだわよ」  ささやいて、パッと手を放すと、ハトは薄暗い空へと羽ばたいていった。  飛び去った方向を見定めたワイリーは、ひと安心した。 「マスリックか……」 「司法官にもらったハトだもの。これで、この道の安全が守られるでしょ」  ルフィが、にっこり笑って言った。 「さてね。どのみち、あの色男の手にゃ負えないと思うが……」  どうでもいいといった調子で答え、大きく欠伸《あくび》をする。司法官のことを悪く言ったとたん、少女が顔をしかめたのが気に入らなかった。  気づいたときには、彼は自分で話題を変えていた。 「村はまだなのか?」 「もうすぐ……の、はずだけど」  そっちのほうが詳しいんじゃないの? といった顔で、ルフィがふり返る。  ワイリーは首を振った。 「言ったろ、田舎は嫌いなんだ」  手綱をゆるめて馬を歩かせ、ルフィが行く手を指さす。 「もうじき高い丘が見えて……たしか、その先がライモードよ」 「へえ。地図を暗記したみたいな口ぶりだな」 「してるわよ」 「ええっ!?」  驚いたワイリーに、彼女は当然という顔でうなずいた。 「�針金ネズミ�の護送任務よ。赤インクで印をつけた地図なんか持ってられないわ」 「だからって、そのためだけに地図を?」 「ええ。この辺の地形や街道筋にある地名ぐらいはね」  暗記はわりと得意なのと謙遜《けんそん》して答えているが、やれと言われてそうそうできる類のことではない。 「護民官も大変だな」 「やりがいのある仕事よ」  胸を張って、ルフィは答えた。    ㈼  室内の大半が、天井まである本棚で埋め尽くされた書庫。  薄暗く、冷え冷えとした空気には、ぷんとカビ臭い匂《にお》いが漂っている。  唯一ひらけたスペースである作業机の前に、男が一人、ひっそりとたたずんでいた。  燭台《しょくだい》は机に広げた地図を照らす役にしか立たず、彼の顔は闇《やみ》に隠されている。 「�針金ネズミ�による被害報告を、地域別に抽出せよ……」  身じろぎもせず、流暢《りゅうちょう》なロマヌア語で彼は命じた。傍らに置かれた一冊の古びた書物から、数百匹の�本の虫�がサワサワと足音をたてて現れる。  大量に書物を扱う図書館や資料室で、ごく普通に飼われている�本の虫�——中指ほどの長さの、栞《しおり》のように平べったい虫たち——は、クチャクチャと、彼らの間でしか通じない言語を言い交わしながら棚を駆け登り、書類の隙間《すきま》にもぐりこんでいった。  虫たちは、背と腹の感覚器をフル稼働させて「針金ネズミ」なる単語を探し、目にもとまらぬ速さで書物から書物へ、ページからページへと走り回る。  部屋の資料は膨大で、検索にはしばらく時間がかかりそうだった。  机に両手をついた男は、地図を見おろした。  ロマヌア人が�庭�と称する広い内海に突き出した南の半島部分と、つけ根に広がる北の山岳地帯——ロマヌアの周辺地図だった。  ロマヌアは、国としては決して大きくはない。西では半島に沿って流れ込む川が国境になっているし、北部の森林と丘陵地帯はマスリックの領土だ。  東の平野はフロスという小国に接していたが、地図は最新のものらしく、小国には斜線がつけられていた。この地域が二年以内にロマヌアに属したことを表す印だ。外交と通商に長《た》けた国にしては珍しく、そこは戦争で奪った土地だった。  地図には、地名や地形よりも、海路と街道を表す線や、その途中の中継地のほうが太字で書かれている。そればかりか、街道なら徒歩か馬か、海路であれば船種に応じて、区間ごとの到達時間が記されていた。例えば、表街道を使えばマスリックの王都からヘルドアまでは早馬で二日——といった具合にだ。 「まずはライモード……」  つぶやいた男は、地図に赤く引かれた線を北から南へとなぞる。  襲撃の失敗は予想の範疇《はんちゅう》だった。いや、むしろ好都合かもしれない。  赤線の後半、太字の都市の上で彼の指が止まった。コツコツと爪《つめ》の先で「ヘルドア」という文字に傷をつける。  マスリックからルストまで、街道を外れた裏道をつないだ一本の赤い線——西回りにヘルドアに出るまで、太字の中継地は一つもなかった。ヘルドアからは海路でルストにつながっている。  良港の多いことで知られる半島の西側、大きな湾の中央部に、ルストはあった。地図の中で最も大きく記され、陸と海からたくさんの線が集まっている。ルストは、遠く外海にまで船を送り出す重要な港湾都市なのだ。  赤い線の中で、海路だけが一般的ルートなのは、船さえ慎重に選べばよいからだった。 「もっとも、船を出せればの話だが……」  彼は地図を叩《たた》くのをやめ、ペンを手にした。  ヘルドア〜ルスト間の細い赤線の上に、青インクで×印が描かれる。 「抽出終了! 抽出終了!」  机の上の古い書物に帰還した虫たちが、キイキイ声で告げた。 �本の虫�の巣をめくると、抽出結果が、びっしりと書き記されている。  結果を一目見た彼は、ほうと感心したような声を上げた。  ルスト、ヘルドア、マスリック……その他も、全て都市部か有力者の城塞や屋敷に限られている。一件たりとも、農村や鉱山での被害は報告されていない。  理由はわからないが、�針金ネズミ�が田舎を苦手としているのは紛れもない事実だった。 「すると、あの一件は例外中の例外だったわけか……」  男は低い声でそうつぶやいた。    ㈽  二人がライモード村の外れにある小高い丘のふもとに着いたころ、長かった夜が明けた。  村といっても、道端に商用ロマヌア語で名を記した道標があるだけで、村人も集落も見あたらない。牧草の茂った丘が連なり、それを取り巻くように森が広がっている。  道は、丘の中腹を横切る坂道になっていた。  丘の向こうに麦畑でもあるのか、遠くからヒバリのさえずりが聞こえてくる。  青々とした牧草地を左手に、埃《ほこり》っぽい砂利道をのろのろと登っていくと、丘の頂上から唐突に朝日が顔を出す。  初夏の強い日差しが、徹夜明けの二人の目に容赦なく突き刺さった。 「今日も暑くなりそうね」  お風呂《ふろ》に浸《つ》かりたい! ルフィは心の底から思った。  公衆浴場に十日以上も行ってないなんて、護民官になって初めてだ。ルストでも忙しく駆け回ってはいるが、暇さえあれば街のあちこちにある風呂場に寄って汗を流せた。  それがこの任務ときたら……。 「いいかげん休ませろよな。あんたは平気だろうが、こっちは歩き通しなんだぜ」  まぶしそうに目をしょぼつかせて、ワイリーが情けない声を上げた。  ベタつく額の汗をぬぐって、ルフィは肩ごしに様子をうかがう。�針金ネズミ�は、口で言うほど疲れているようには見えなかった。鎧《よろい》を着けている分、こっちの方が暑いくらいだ。 「村に着いたら、ひと休み[#「ひと休み」に傍点]しましょ」 「いいや、ひと眠り[#「ひと眠り」に傍点]だ。ロマヌアの市民としての正当な待遇を要求するぞ」 「しかたないわね、宿を探しましょう……」  ワイリーの苦言に渋々折れたふりをしながら、「あたしもお風呂に入りたいし」と、心の中でつけくわえ、ルフィはため息をついた。  ヘマをした上、安易に妥協してしまう自分が情けない。山賊の襲撃で馬を失ったせいで、予定は大幅に狂ってしまっていた。本来ならライモードで小休止した後、次の村で一泊するはずだったのに……。 「なに暗い顔してんだ?」  気がつくと、ワイリーが心配そうに顔をのぞきこんでいた。 「路銀はあるんだろうな? 頼むから、飯も食わしてくれよ」  見当違いの気遣いに、ギュルルッと彼の腹の虫までが同調する。  ルフィは、うつむいてくすくすと笑った。照れ隠しにムッとしている彼の横顔を眺めながら、どことなく憎めないのよね……と思う。  女子供に手を出さないというのは、意外と本当なのかもしれない。初めて、そんな気がした。  でも待って! 全てが脱走のための計算された演技だとしたら? そう、油断は禁物だ。  すました顔で彼女は言った。 「夕食がまだだったわね」 「もう朝飯だろ」 「そうね。昼食にしたくなかったら、さっさと歩きましょ」 「やれやれ、飯もベッドも丘の向こうか……」  ため息と同時に、腹の虫がまたしても威勢よくうなり声をあげる。  ルフィは鞍《くら》の上で体を折り曲げ、目に涙をためて必死に笑いをこらえた。今は他国で任務中の身だ、笑い転げたら護民官としての品位を問われる——彼女は、本気でそう信じていた。 「しょうがねえだろ。すきっ腹なんだから」  ロマヌアの悪魔と恐れられている(らしい)男が、咳払《せきばら》いをしてそっぽを向く。 「だらしないわね。あたしだって食べてないのよ」 「腹が鳴らねえのは、想像力が足りないからだ」 「そんなの、気の持ちょうでしょ」 「試してみるか?」  にやりと笑うなり、ワイリーはロマヌアの郷土料理を次々とあげていった。�針金ネズミ�はなかなかの食道楽らしく、美味《うま》そうな料理がまるで目の前にあるかのように詳しく、表現力豊かに話し続ける。 「クラステナ産の肉のしまった地鶏の焙《あぶ》り焼きが食いたいよな、オリーブを詰めて……」  岩塩をふられた丸のままの鶏が、こんがりときつね色に焼け、脂がジュウジュウと音をたてる様子や、香ばしい煙にまで話が及ぶと、ぐうっと胃がへこむ感じがして唾《つば》がわいてくる。 「や、やめなさいよ」 「サカスの蒸し焼きもいいねえ。肝は別にして、鍋《なべ》でさっと湯がいてだな……」  ハタの一種のサカスは、海辺のルストではポピュラーな素材だ。蒸し器から出てきた自身魚の、とろりとした食感を思い出して気が遠くなってくる。 「やめてってば!」  空腹なのを嫌と言うほど思い知らされた胃が、クウッと可愛《かわい》らしい音をたてた。 「ほらな」 「んもう……馬鹿!」  と、赤くなってうつむいたところで、ワイリーと目が合う。昨晩のような険悪な睨《にら》み合いではなかった。引き分けを主張して腹の虫が二つ同時に鳴り響くと、二人は顔を見合わせたままふきだしていた。  さっきまで可笑《おか》しいのをこらえていたせいか、くだらないことなのに笑いがとまらない。  古いつき合いの友達同士のように、楽しそうに笑いながら歩いていく二人。  ちょっと、ルフィ! 護民官と泥棒が仲良く笑ってていいの? 職務を思い出した彼女は、くっくっと笑いをこらえて涙をぬぐった。  せっかくの和やかなムードを、利用しない手はない。 「さてと、そろそろ聞かせてもらおうかしら……?」  できるだけ何気なく言ったのに、さっきまでうち解けていたワイリーが、あっという間に雰囲気を変えた。相変わらず笑みを浮かべてはいるが、もう目は笑っていない。牢屋《ろうや》にいたときと同じで、用心深く、こちらの出方をうかがっている。 「ほら、夜中に襲ってきた連中のことよ」  ワイリーは、答える代わりにわずかに肩をすくめてみせた。  あれは本物の山賊だったのか——と、ルフィは疑問を口にした。�紅の羽根�のことは自分のヘマだったが、真夜中のあんな裏道に山賊がいるのは変じゃないのか? 意外にも、ワイリーは素直にうなずいた。 「同感だ。あれは俺たち目当ての待ち伏せだな」 「でも誰が? 何のために? だいたい、どうやってあたしたちの帰路を知ったのよ?」 「さあな」 「相手は、あなたを狙《ねら》ってきたのよ」  ふり向いたまま、ルフィはじっと彼を見つめた。道がカーブにさしかかっても、馬が耳を振って追いやったアブの羽音が近づいてきても……。  ワイリーは、黙ったまま長いこと考えていた。言おうか言うまいか迷っている、といった感じの顔だ。 「心当たりがあるのね?」 「もしかしたら、偽者の仕業かも……ってな」  歯切れの悪い返事をしたワイリーは、半年ほど前から自分以外に�針金ネズミ�を名乗る男が現れたのだと説明した。 「誰だか知らねえが、女子供でも容赦しないし、暗殺や人さらいなんかも平気でやる悪党だ。おかげで�針金ネズミ�はロマヌアの悪魔呼ばわりさ」  偽者が事件を起こすたび、顔を知られている彼のほうが司法官に追われ、時には牢にぶち込まれる。むろん、すぐに逃げ出していたわけだが。 「捕まえてぶっ殺してやろうとマスリック中を探したが、野郎、なかなか尻尾《しっぽ》を出さねえ」  と、ワイリーは怒気を吐いた。 「ふうん、偽者ねえ……」 「証拠はない。信じる信じないはあんたの勝手だ、護民官」 「信じるわよ」 「へっ?」  驚いたワイリーは、嬉《うれ》しいような後ろめたいような複雑な顔で彼女を見つめた。  そりゃ、裏づけなしに信じるのは危険だが、たぶん彼は嘘《うそ》をついてはいない。ルフィはそう思った。司法官から聞いた噂《うわさ》とも辻褄《つじつま》が合うからだ。  つまり偽者が本物に取って代わろうとワイリーを襲った……ってことかしら。  あれれ? でも、なんか変じゃない? ルフィは首を傾げた。どこか不自然な気がするのに、考えがまとまらない。考えれば考えるほど、ますます熱い湯に浸かりたくなる。やっぱり、ややこしい考え事は、お風呂でリラックスしてないと……。 「まあいいわ。任務に支障はなかったんだし」  不本意な結論を口にすると、警戒を解いたワイリーが嬉しそうにうなずいた。 「そうそう。大事なのは、朝飯と寝床だ」 「あっ、あと一つだけ」 「まだあんのかよ」 「ごめん。ずっと気になってたから……」  ルフィは少しうつむいて言った。  男性の生理はよくわからないが、そんな彼女の目から見ても、ワイリーには明らかに不自然な部分がある。彼は大人の男で、地下牢に二ヶ月も閉じこめられていた、それなのに……。 「あなた、ぜんぜん髭が伸びてないのね[#「ぜんぜん髭が伸びてないのね」に傍点]」 「そりゃ、ちゃんと三日に一度は牢を抜け出て街の床屋で……」  油断して口を滑らせたワイリーは、アッと叫んで口をつぐんだがもう遅い。 「どういうこと? 説明しなさい、ワイリー・マイス」  護民官の顔に戻ったルフィは、鐙《あぶみ》につま先立ちして言った。    ㈿  パチン!  はじける音を響かせて、植木バサミが南国産の観賞樹の小枝を切り落とす。  強い日差しの中、庭師が黙々と手入れを続けていた。  ルストの護民長官の役宅は、質素な造りの館《やかた》だったが、数々の珍しい植物をあしらった庭園だけは見栄えがした。  館はにぎやかな商業地区の一画にある。荷馬車の行き来する音が絶えないし、物売りの呼び声も何かしら聞こえてくるーそんな場所だった。赤っぽくきめの細かい石材を使った平屋根の四角い建物が、どこまでも軒を連ねている。  大小の違いはあっても、ルストの住居は、どれも暑い夏をすごしやすいよう中庭を高い壁で囲む作りになっていた。だから、街の大半は、淡い赤色の壁が続くことになる。  温暖な気候にあった華やかな色合いだが、遠くから眺めたときには、街全体が錆《さび》に覆われているかのように見えた。  パチン! パチン!  庭師のハサミが、リズミカルな音を上げる。  ハサミが、きれいに刈りこまれた枝の列から一輪だけ飛び出した白い花を切ろうとすると、二階のテラスから庭を眺めていた白髪の老人が声をかけた。 「ちょいと待った、そいつは切りなさんな」 「ですが、旦那……」 「威勢のいい花の一本ぐらいあった方が、かえって庭が映えるってもんです」 「はあ」  しかたなく、庭師がハサミを離す。  白髪の老人——護民長官のプリニウス翁は、満足げな笑みを浮かべて茶をすすった。手にした湯飲みから、すっと湯気がたなびく。  中庭に面したテラスは、居心地が良かった。海流や地形の影響で、適度に乾燥した空気が涼風を呼ぶ。立地から風向きを計算して造られた壁の隙間《すきま》を、その涼しい風が吹き抜けていくからだ。日差しはきついが、日陰に入れば涼しいールストは夏でもすごしやすい都市だった。  気候に恵まれ、街道と海路の集中する商業都市。同時に、ロマヌアの数少ない武都でもある。  港には、�庭�と称する内海を制するロマヌア海軍のガレー艦隊基地もあった。 「威勢のいい花……ベルフィード・ヘイズォトですか」  テラスの奥から低くやわらかい声がして、二人分の足音が近づいてくる。  プリニウスは、背を向けたまま気にせずに庭を眺めていた。  同じ声が言った。 「たしかにあの娘がいないと、ルストの喧噪《けんそう》さえ静かに感じられますな」 「ほほう、ルフィのことまでご存じとは」とプリニウス。 「街の噂は自然と私の耳に入ってきますのでね」 「ふむ」  うなずいた老人は、ゆったりとした長衣をなびかせてふり返った。  彼の柔和な眼差《まなざ》しと、客人の冷静な視線がぶつかる。  相手の男は、背が高く堂々としていた。ルストの有力者ロペス・マリオルト——王の親族でもあり、国政に大きな権限を持つ商工議会の顔役だ。�耳�と呼ばれる組織の長でもある。  ロマヌアの商人たちは、入念に整備された街道と優れた航海技術によって周辺諸国に浸透していた。交易には各地の情報が必要だし、商人同士の情報交換の場も作られる。  張り巡らされた情報網はやがて、積極的な情報の収集と伝達を行う�耳�に進化した。外交や通商によって領土を広げてきたロマヌアは、そのための武器となる情報を常に保持する必要があったからだ。下地がある分、�耳�の能力は他国の比ではなかった。  その�耳�の長が、手を広げて傍らに控えていた男を示し、護民官の長に告げた。 「先生、この者は私の片腕です。�耳�の窓口としてこちらに残り、彼女の動向を知らせます」 「警備の者に顔を覚えるよう伝えておこう。自分の家だと思って出入りなさい」  ロマヌアで五本の指に入る有力者に「先生」呼ばわりされたプリニウスは、鷹揚《おうよう》に言った。 「よろしく……」  デモクスと名乗った男が、深々と頭を下げる。  初めて見る顔だった。中肉中背で、働き盛りの貿易商人といった風情である。  ルストでは、空気みたいに目立たない外見だ。市場にでも紛れこまれたら、あっという間にどこにいるかわからなくなってしまうだろう。  護民長官という立場上、マリオルトの役職こそ知ってはいたが、誰が�耳�の協力者で、どこで聞き耳をたて、どのような手段で報《しら》せを伝えるのかは、プリニウスにもわからなかった。  だからこそ、警備の者に彼の顔をしっかり覚えさせておく[#「彼の顔をしっかり覚えさせておく」に傍点]必要があった——事態が収拾したあと、二度とこの男を出入りさせないためにである。  プリニウスは護民官なのだ。�耳�を信用したことなど、ただの一度もなかった。  デモクスは、小さな紙片に目を通しながら二人に告げた。 「早速ですが報告いたします。ヘイズォト護民官は、一昨日にマスリック領内に入ったとのことです。今頃は、帰路についていることでしょう」  マリオルトがうなずく。 「ロマヌアとマスリック、二つの国の命運がかかっている」 「ルフィは最適の人材だ。問題は�針金ネズミ�がどう動くかさ」とプリニウス。 「盗賊風情に主導権を握られているとは……!」 「�耳�が聞くだけなら、他に方法はないさ。マリオルト、お前さん、この国に護民官って制度があったことを感謝しなきゃなんねえよ」 「ベルフィードは、単なる護送任務としか知らされていないのでしょう?」 「本人が知らないからこそ、獲物も餌《えさ》に食いつく。ルフィは若いが単独捜査が専門の護民官だ、自分で何とかするさ。ま、あの娘は孫みたいなもんでね、心配は心配なんだが……」 「ワイリーがベルフィードに悪さを?」 「そうなりゃ、少しはあのはねっ返りも女らしくなるかもしんねえが、まず無理だね。私が心配してるのは、�針金ネズミ�の方だよ。かわいそうに、ひどい目にあってなきゃいいが」 「は、はあ……」  返答に窮したマリオルトに、ニッと笑いかけると、プリニウスは湯気の立つ湯飲みを傾け、一息に熱い茶を飲み干した。  ㈸ 「あの地下牢《ちかろう》から、脱獄してた? それも床屋に行くためだけに?」  ルフィは声を上げてワイリーに詰め寄った。  あの鍵《かぎ》を開けてしまうくらいだ、脱獄だって容易だろう。自信たっぷりだった司法官の顔が、ちらっと脳裏をかすめる。  開き直ったワイリーが、胸をそらして言った。 「髭《ひげ》を剃《そ》りたいってのに、牢番の奴《やつ》がカミソリを貸さねえ。で、しかたなくだな……」  そういう問題ではない。 「なんで牢に戻ったわけ?」 「悪いかよ。脱獄しなかったんだから文句ないだろ」 「だから、なんで?」 「それはその、つまり……あっ! ありゃ何だ?」  突然、ワイリーは大きな声を上げた。顎《あご》の先で、丘の上を指している。  つられてルフィも目をやった。  石切場だろう、街道より上の斜面が削り取られ、岩がむき出しになっていた。  そこに太い丸太が数本突き立てられ、丘の向こうから顔をのぞかせている。 「何かしら? 大きな杭のように見えるけど」 「ありゃ、罪人をさらしておくとこだな」  丸太に気をとられ、ルフィは彼が話題をそらしたのを忘れた。 「こんなところに?」 「マスリックじゃ、自分の領地では領主が勝手に裁く。判決次第で処刑方法もいろいろさ」  ワイリーの言葉に、眉《まゆ》をひそめるルフィ。  専門職でもない一領主が裁定すれば個人的な感情も入るし、基準もいいかげんではないのか? 裁定者にふさわしくない領主だって大勢いるだろうに……。 「ずいぶんと、いいかげんな制度ね」 「マスリックに限らず、これが普通さ。ロマヌアが特別なんだ」 「ふうん……」  他の国に護民官のような職業がないのは、それでなのかしら? 斜面の縁から煙突みたいに突きだしている丸太を、ルフィは複雑な思いで見つめた。  丘を回ると道は下り坂になり、処刑場全体があらわになる。石切場は、斜面を登ったところにあった。村を見おろすように立つ八本の柱……。  丸太のひび割れ具合からしてかなりの古さだ。そのうち三本には罪人の着物だったらしいボロ布が乾いてへばりつぎ、最後の一本には生きた人間が縛りつけられていた。 「おやおや、どっかの馬鹿がドジ踏んだな」  ワイリーは岩場を見上げてつぶやいた。自分が不幸なときに他人の不幸を見るのは慰めになるのか、どことなく楽しげな口調だった。  ルフィも額に手をかざし、まぶしそうに柱を見上げた。金属の輪で補強された丸太に、腕を後ろに回された男が鎖で縛りつけられている。彼は首をうなだれたまま動かなかった。 「この暑さじゃ三日ともたないわよ。死罪ってこと? よっぽどの悪人ね」 「いや、領主の悪口言っただけかも」 「まさか!」  憤然としたルフィがふり返ったとき、岩場から声がした。 「お〜い、あんたら! 頼みがあるんだが」  二人が見上げると、柱の男も大儀そうに首をもたげてこちらを見かえす。 「何をして捕まった?」  ルフィが口調を改めた。少し背伸びをして、鐙《あぶみ》にかけた足が持ち上がる。 「たいしたことはしてねえ。こっちは頼まれてくれねえかと聞いてんだ」  男が、いらついた口調で答えた。  日差しに目を細めて彼を見つめていたワイリーは、馬の尻《しり》によりかかってささやいた。 「村へ行って飯にしようぜ、護民官。あいつは、ああなって当然の罪人だ。気にすんな」 「あなただって似たようなもんでしょ」と、冷たいルフィ。 「護民官、俺《おれ》が言いたいのはだな……」 「平気よ。泥棒の一人や二人」  彼を無視して、ルフィは声を張り上げた。 「どんな頼みだ?」 「水を持ってないか? 一杯……いや、一口でいい。そうすりゃ一日は命が延びる」 「けっ、贅沢《ぜいたく》な野郎だ」  ワイリーが言った。俺だって昨日から一滴も飲んでない……そんな口ぶりだ。  ルフィは黙って馬を降りた。  鞍袋《くらぶくろ》から革の水筒を出して振ると、中の液体がピチャピチャと音をたてる。 「おいおい、あんな奴の言うことを聞いてやるのか? だから女の護民官なんてなあ……」  そんな悪態をつきながらも、ワイリーは岩場に登るまでロープを弛《たる》ませて、ルフィのそばを離れなかった。柱の男が誰かを、彼は知っていたからだ。 「なんでえ、女だったのかよ」  二人がまき上げた砂ぼこりに、男が顔をしかめる。  柱に縛られての灼熱《しゃくねつ》地獄——彼の風貌《ふうぼう》は、それ以上に暑苦しかった。  どことなくイタチを思わせる顔に意地悪そうな目。まだ体力は残っているらしく、瞳《ひとみ》は曇っていない。ただ、頭のてっぺんに残っている一房の貧相な赤毛だけが、暑さにやられて色あせ、トウモロコシの髭のように縮れていた。  ルフィが水筒の栓を抜くと、男の顔が初めて緩んだ。 「へへへ、すまねえな」 「いいわよ水ぐらい。村はすぐだし……」  ルフィが左手に水筒を持って男に近づく。  ワイリーは背中をかがめて彼女の背後に隠れた。  彼は男がさり気なく立て膝《ひざ》になったのを見逃してはいなかった。この馬鹿は、水を飲ませてもらうふりして彼女を足で捕らえ、締め上げるつもりなのだ。ルフィを人質に、俺に鎖を解かせようってわけか……。  足が伸びる寸前、ワイリーはタイミングを見計らって言った。 「悪さはやめときなハッグ。殴り殺されるぞ。この娘はロマヌアの護民官様だからな」 「ワ、ワイリー!」  勢い良く伸ばしかけた足が、力を失って地面に落ちる。  男の目は、今にも飛び出そうなくらい見開かれていた。  驚いたのはルフィも同じだ。 「知り合いなの?」 「通称�赤毛のハッグ�……つぶされた�紅の羽根�の頭さ」  ワイリーが言うと、ハッグの顔色が変わった。 「このクソネズミ! 俺たちがやられたのは、てめえの手引きだろうが!」  怒りのあまり、彼は商用ロマヌア語ではなく地元のマスリック語で怒鳴っていた。  こいつ、なに勘違いしてんだ? まさか、本当に偽者が�紅の羽根�を……?  ワイリーがそんなことを考えている間に、ハッグはさらに悪態をついた。  どうやら、彼は�針金ネズミ�の手引きで現れた新参の山賊にやられ、森から逃げたところで村人に捕まり、見せしめにつながれているらしい。  ペッと臭い唾《つば》をワイリーに吐きつけ、ハッグが言った。 「仲間を売った薄汚《うすぎたね》えネズミ野郎め。いつか殺してやる……」 「誰と誰が仲間[#「仲間」に傍点]だって?」 �針金ネズミ�の目が、すっと細くなる。  ルフィを押し退《の》け、彼は力いっぱいハッグの股《また》ぐらを蹴《け》り上げていた。  ギャッ! と、山賊の首領が情けないかすれ声を上げる。 「ちょ、ちょっと」  戸惑いながらも、ルフィがロープを引っぱる。  悶絶《もんぜつ》するハッグを睨《にら》みつけたまま、ワイリーは同じマスリック語で応酬した。 「アホか、俺は昨日まで地下牢にいたんだ。だがな、今回ばっかりは偽者に感謝してるぜ……ざまあみろだ、ハッグ!」  知り合いではあるが、ハッグはつき合って気持ちのいい奴ではない。相手が誰であろうと容赦しないし、受けた恨みはいつまでも憶《おぼ》えていて何倍にもして返す。 �針金ネズミ�と組みたければ無用な殺しはしない、そんな最低限のルールも守れないような悪党なのだ。逃げる途中、通りかかった幼い子供を連れた妊婦を、こいつは虫けらみたいに殺しやがった——組んだときの後味の悪さを思い出し、ワイリーは吐き捨てるように言った。 「この人殺しのイタチ野郎!」 「へっ、あん時ゃしかたなかったろ。やらなきゃこっちがやばかった」  そう言いながらも、ハッグが目をそらす。 「てめえは人殺しを楽しんでるだけだ。いいか、泥棒ってのはな……」 「知ったことか。あいにく、俺は山賊でな」  ルフィには、早口で交わされるマスリック語の方言が聞き取れない。  呆《あき》れて二人の争いを眺めていたが、気を取り直して仲裁に入ることにした。 「ねえ、一体なんの話を……」  無視して、二人は怒鳴りあっている。 「ちょっと聞いてる? あたしは……」  怒鳴り合いが止まる気配は微塵《みじん》もない。  咳払《せきばら》いしたルフィは、姿勢を正し、少し背伸びして言った。 「やめなさい、ワイリー・マイス」  それでも二人は怒鳴り続けて——ルフィの眉《まゆ》がキッとつり上がった。  左手の水筒を、おもむろに口へと運ぶ。  残り少ない中の液体は、あっという間に彼女の口に流し込まれた。  ごくっごくっと喉《のど》を通り過ぎる音。  水を飲み干し、ぶはっと息を吐くルフィ。 「あ、ああっ! 俺の水が……!」  ようやく、ロマヌアの言葉でハッグが叫んだ。  二人の男を上目づかいに睨みつけたルフィは、大きく息を吸い込むと、ワイリーの耳をつかむなり想像を絶する大声で啖呵《たんか》をきっていた。 「いいかげんにしなっ、このネズ公! 人がおとなしく言ってりゃ、いい気になって! ギャアギャアわめいてると、あんたも丸太に吊《つる》してそのままネズミの干物にしちまうよっ!」  そしてさらに、耳元で大きく息を吸い込む音。 「わかった! わかったから、護民官! やめてくれ!」  耳を塞《ふさ》げないワイリーは、のたうちまわって悲鳴を上げた。  声量もさることながら、柄の悪いルストの下町言葉が少女の口からポンポンと威勢良く飛び出したのには、さすがの�針金ネズミ�も驚いたらしい。 �赤毛のハッグ�も度肝を抜かれ、大口を開けてルフィを見つめている。 「……っと、いっけない。またやっちゃった」  人さし指で唇を押さえたルフィは、頬《ほお》を染めた。 「さ、もう行くわよ!」  ロープを引っぱるルフィ。照れ隠しだけではない。なにやら因縁のある二人に、自分の理解できない言葉で会話を続けさせるのはまずいからだ。  また怒鳴られてはたまらないと思ったのか、ワイリーはおとなしく彼女に従った。  ハッグが、恐る恐る声をかける。 「あの、水は……?」 「やかましいっ!」  ルフィが一喝すると、残虐非道の山賊の頭領は、ビクッと首をすくめた。  その間にルフィはくるりと踵《きびす》を返し、のんびりと草を食《は》んでいる馬のところへと、ずんずん下りていってしまう。彼女はふり向かなかった。あんな元気な奴《やつ》に同情の余地はない。 「護民官! 待ってくれって、そんなに急ぐと転んじまう!」  ロープでつながれたロマヌアの悪魔が、犬みたいに引きずられていく。  残されたハッグは、二人を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。 「俺……ロマヌアの山賊じゃなくてよかった」  すごい、すごいや……。  遠く上のほう、丘の頂上に隠れて一部始終を見ていた少年——テオは、ごくりと唾を飲んだ。  彼はドキドキしながら、物語に出てくるような悪党たちの争いを見物していた。  人でなしの山賊�赤毛のハッグ�と、彼の股間《こかん》を蹴り上げた本物のロマヌアの悪魔、�針金ネズミ�……そんな大悪党が、あの少女の気迫に怯《おび》えていたのだ。  ハッグは一喝され、ワイリーは犬みたいに引っぱられていく。  きっとあの女の子が、子爵様の言っていたロマヌアの護民官なのだ……。 「ファブリアーノ様に知らせないと」  草の斜面に腹這《はらば》いになっていたテオは、パッと立ち上がった。  村に護民官が来たら、城に知らせてくれと頼まれているのだ。ファブリアーノ様は、宿を訪れたらでいいと言ったけれど、テオはとても待ってなどいられなかった。本物の大泥棒の�針金ネズミ�と、名高い正義の味方、ロマヌアの護民官をこの目で見ようと、暇さえあればここで見張っていた甲斐《かい》があった。  ファブリアーノ子爵は、奉公人だった母さんが宿屋を始めるときに屋敷を貸してくれた恩人だ……約束は破れない。  テオは村へと去っていく二人に背を向け、丘の反対側へと走り出した。  坂道を一気に駆け下りる。 「しまった!」  勢いがついたところで、彼は急に足をとめた。つんのめった拍子にサンダルの底で牧草が擦《こす》れ、草の匂《にお》いが立ちのぼる。  あの二人、村へ行こうとしてるけど……。  テオは少し不安になった。村の人が、縛られている男を�針金ネズミ�と知ったらどうするだろう? あの女の子がいくら護民官だって言っても、きっと……。 「きっと、まずいことになるぞ……」  つぶやいた少年は方向を変え、丘を一目散に駆け下りていった。 [#改ページ]  第三章 ライモードの罠《わな》    ㈵  苔《こけ》むした石垣の残骸《ざんがい》を通りすぎ、丘を越えたとたん、一面の麦畑が広がっていた。  若い麦の穂が朝日に輝き、金色にうねっている。まるで、ルストの海のようだった。  街道は、その海原を突っ切るようにして真《ま》っ直《す》ぐ伸びている。遠くには民家の屋根も見えた。  丘は放牧地、平地は麦畑……なんとものどかな田園風景だ。 「これでも田舎は嫌い? すてきな村じゃないの」  ルフィは深呼吸した。安心したせいか、空気まで美味《おい》しく感じられる。 「すてきだぁ? じゃ、ありゃなんだ?」  ワイリーが、目の前に迫った奇妙なものを顎《あご》で指した。  急ごしらえの柵《さく》が街道を塞《ふさ》ぎ、隣には櫓《やぐら》のようなものが建てられている。  様子がおかしいと思ったときには、畑から三人の農夫が鋤《すき》や鎌を手に近寄ってきていた。  ワイリーを連れたまま馬で飛び越えるわけにもいかず、柵の手前で立ち止まる。  農夫たちは柵をはさんで用心深く距離を保ったまま、敵意に満ちた目で二人を見上げていた。  鐙《あぶみ》の上で立ち上がり、軽く背伸びする。 「通してください。私はロマヌアの護民官です」  言ってはみたが、山賊の時と同じで、一人として恐れ入った気配はない。ロマヌア国内でなら、どこでも多少は尊敬の目で見られるし、信用もあるのに……。  三人のうち最も年輩の農夫が、しわがれた声で言った。 「あんたは通してもいい。だが、その男には用がある。こっちに渡してもらおうか」 「冗談じゃないわ、私は彼をロマヌアに連行する途中で……」 「知ってるさ。�針金ネズミ�なんだろ?」 「噂《うわさ》通りだ」 「ああ、本当に護民官が連れてきた……」  顔を見合わせてささやく声が、不気味に低くなっていく。 「三日前、村の幼い子供ばかりが四人。そいつにさらわれて殺された」 「俺《おれ》の娘もだ! 覚えがあるだろ!」  若い農夫が、殺意に満ちた目でワイリーを睨《にら》みつけた。  まさか……と、ふり返るルフィ。  ワイリーは傷ついたような顔で言った。 「なんだよ、信用ねえな。俺じゃねえよ」  じゃ、これも偽者の仕業……?! 「待って、みんな誤解よ。彼は別の�針金ネズミ�なの、昨日まで地下牢《ちかろう》に……」  言い訳がましい言葉が、空しく響いた。説得できる雰囲気はまるでない。  じりっと三人がにじり寄ってくる。  最初の村人が、|から竿《フレイル》をふり上げて叫んだ。 「ロマヌアの護民官が来たぞっ!」 「�針金ネズミ�を連れてる!」  もう一人も大声を上げた。  その隙《すき》に若い農夫が櫓によじ登り、激しく鐘を打ち鳴らす。 「捕まえろ!」 「�針金ネズミ�を吊《つる》せ!」  ざわざわと麦畑をかきわけて、大勢の押し寄せてくる気配がした。のどかな風景とは不釣り合いな、血走った目をした村人たちが! 「な、なんでこうなるのよ!」  どうしよう……。不安に駆られ、下唇を噛《か》むルフィ。  これは護民官としての任務なのだ。ワイリーはルストに届けなくてはならない。そう思うと自然に右手がクルクスに伸びた。相手は素人ばかり、自分ならあっさり蹴散《けち》らせる……。  でもルフィ、それが正義を司《つかさど》る護民官のすることなの? そう思ったとたん、武器を持つ手から力が抜けていく。この人たちは何もしてない。それどころか被害者なのよ……。  不正は、せっかく積み上げた信用を一瞬で地に落としてしまう。  父がそうだったように[#「父がそうだったように」に傍点]! 「逃げるわよ、ワイリー・マイス!」  叫んでふり返ったルフィは、目を疑った。  彼の様子がおかしい。虚《うつ》ろな目をして、何やらブツブツとつぶやいている。 「ワイリー!」 「俺じゃない……悪いのはあいつらだ……俺は……」  農夫たちが柵を越えてくる。  先頭の二人が得物をふり上げた。 「目を覚ましなさいっ!」  パン! と、馬上から腕をふるって頬《ほお》に平手打ちをかます。  ようやく、ワイリーの目に生気が戻った。 「早く後ろに乗って! あなたならできるでしょ?」  馬首を転じたルフィは、返事も待たずに馬の尻《しり》をクルクスで叩《たた》く。  瞬時にどうすべきかを悟ったワイリーは、たった数歩の助走で驚異的なジャンプをした。  縛られたまま、彼は難なくルフィの後ろに飛び乗っている。  から竿や鋤が迫る寸前、危ういところで馬は走り出していた。  後ろで、「逃げたぞ!」とか「みんなに知らせろ!」という声がする。 「大丈夫?」  麦畑に沿って馬を走らせながら、ルフィは背中越しに声をかけた。 「すまん」  気まずそうに謝りながらも、ワイリーは「どこへ逃げるんだ?」と意地の悪い質問をした。 「戻ったって山賊の巣だぜ」 「引き離してから考えるわよ」  とはいえ、漫然と馬を走らせるわけにはいかない。村を迂回《うかい》するには……と、ルフィは暗記した地形を頭に描いた。このまま、丘と麦畑の合間をいくと脇道《わきみち》にぶつかるはずだ。 「あの人たち、まだ追ってきてる?」 「いんや。けど、あっちには土地勘がある。先回りされるぞ」 「そっか、急がないと……」  ルフィが馬にもうひと鞭《むち》くれようとしたとき、麦畑から子供が飛び出してきた。 「危ないっ!」  両手を広げた少年の目の前で、激しく嘶《いなな》いた馬が竿立《さおだ》ちになる。  たまらずワイリーが転げ落ち、ロープに引きずられてルフィも鞍《くら》からずり落ちる。 「ちょっと、しっかりつかまっててよね!」 「俺かよ? 悪いのは俺かよ!?」  尻の上で縛られた手を見せびらかしながら、ワイリーがわめく。ルフィが言い返す前に、おろおろしていた少年が慌てて二人の間に割って入った。 「ケンカはやめて。むこうの道に見張りがいるんだ!」  十歳くらいの小柄な少年だった。彼はルフィの手をつかんで言った。 「助けに来たんだ! 護民官、早くこっちへ!」  顔を見合わせる、ルフィとワイリー。 「どうすんだ?」 「言ったでしょ、『善良な市民なら信じる』って」  他に良策があるわけでもない。ルフィは、馬を引いたまま徒歩で少年のあとに続いた。当然、ワイリーもついていくしかない。  テオと名乗った少年は、村の方にある小さな丘へと二人を導いた。  歩きながらテオは、興奮気味に自分のことを話して聞かせた。  自分が村に一軒しかない宿屋の息子であること、昔、宿に泊まったルストの商人から聞いていたので、�針金ネズミ�が子供を殺すわけがないと信じていたこと……。 「なかなか感心な子じゃないか」  久しぶりに正当な評価を聞いたと喜んだワイリーが、上機嫌で言った。 「こいつの家に泊まってやろうぜ」 「だめよ、村人たちが来たらどうするの?」  テオが言った。 「大丈夫だよ、護民官。おいらが、『二人して森に戻るのを見た』って言っとくから……」  彼の案内した丘は垂直に削られ、細い隧道《ずいどう》(トンネル)が口を開けている。放牧用の近道らしく、辺りには羊の足跡と糞《ふん》が散らばっていた。 「ここから、村に抜けられるんだ」 「誰もいないのね」  アーチ型をした入口で辺りを見回し、ルフィが聞いた。 「うん。ここの見張りには、�針金ネズミ�が街道に戻ったって言ったから。それに、みんなは村の外を探してるはずだし」 「なるほど、一理ある。村へ入った方が安全だ」  ワイリーがうなずいた。  少年を先頭に、一行は隧道へと入った。  高くなった日が照りつける中、後ろでしきりに馬がくしゃみをする。  三人と一頭が進んでいる小道は砂利さえ敷かれておらず、乾いて埃《ほこり》っぽかった。  隧道を抜けてから小一時間も歩いたろうか。  ここまで、一人の村人にも出くわしていない。トンネルは村の西の外れに通じていた。昔はこちらが街道だったのだろう。テオが言うには、この旧道を行けば、村を抜けてから元の街道と合流するらしい。 「村の人たちを許してあげて……」  テオは、そう言ってしきりに謝った。  そのたびに、もちろんだとルフィは答えていた。  悪いのは、�針金ネズミ�をかたる偽者だ。 「あなたの友達もさらわれたの?」 「うん……あっ! はい、そうです……」  ルフィは少年が自分を見上げる眼差《まなざ》しが、くすぐったくてならなかった。テオにとっては、�針金ネズミ�もロマヌアの護民官も、同等に尊敬に値する英雄らしいのだ。  その英雄たち二人は、恋人同士みたいにぴったり寄り添って歩いていた。  べつにルフィとワイリーの仲が急接近したわけではない。宿で一泊することに決め、上から若草色のマントを羽織ってロープを隠しているのだ。カモフラージュに、ワイリーは怪我人という設定でルフィが肩を貸している。 「ほら、あれだよ」  テオが、行く手の小さな丘のふもとに建った一軒家を指さして言った。 「ありがとう、テオ。おかげで助かったわ。ご協力、感謝します」  ルフィがロマヌア式にお辞儀をすると、少年は照れくさそうに笑った。 「もう案内はいいよね」 「なんだ? お前は帰らないのか?」とワイリー。 「うん。行くところがあるんだ……」  少年が困ったようにそわそわしだしたので、ワイリーは片目をつむって笑った。 「じゃ、お袋さんには、俺がお前に使いを頼んだと言っておいてやる」 「ありがとう! �針金ネズミ�のおじさん!」 「おじさんはねえだろ……」  文句を言いながらも、ワイリーは走り去っていく少年を見送って微笑《ほほえ》む。  ルフィのお気に入りの笑顔だ。こういうときは、いい顔するのよね……そんなことを思いながら、彼女はロマヌアの悪魔の笑顔を見つめて言った。 「今の、どういうこと?」 「きっと、家に帰れば山ほど手伝いをさせられるのさ。俺もガキの頃はそうだった」 「へえ、子供には優しいのね。�針金ネズミ�のおじさん」  彼女がからかうと、ワイリーは息がかかるくらいにグッと顔を近づけた。  はからずも、二人は体を密着させている。碧色《あおいろ》の瞳《ひとみ》が目の前にあった。  ワイリーが魅力的な笑みを浮かべてささやく。 「忘れないでくれ、ルフィ。�針金ネズミ�は女性にも優しいんだぜ……」 「ご、護送中の犯人が調子にのらない!」  護民官としての自分は何を言われようと平気——ルフィは威厳を保ったつもりだったが、いつもの背伸びを忘れるほど動揺していた。  なにドキドキしてんの、ルフィ! あなたは護民官なのよ!  宿に着くまでに、またくだらないことを言ったら、今度は容赦なくクルクスでぶん殴る彼女は、そう心に決めた。    ㈼ 「二人部屋なら一泊で三コレクタ。ロマヌア銀貨なら一枚だよ」  床掃除の手を休めた女将《おかみ》は、不自然な時間にやってきた異国の客に少しばかり驚いていた。  なにしろ、鎖帷子《くさりかたびら》をつけたロマヌア人の少女と、頭に二つもコブをこさえた汚い男の二人連れである。こんな奇妙な客は初めてだった。  ロマヌア人の行商人くらいしか泊まらない宿屋だが、ライモードのような村には似合わない立派な造りの建物は、女将の自慢だ。高い塀や凝った門構え、屋根や窓の飾りに施された彫刻など、貴族の屋敷だったことがすぐにわかる。改装された今は、一階が食堂と厨房《ちゅうぼう》、二階が客室になっていた。  ジロジロと眺め回していると、少女のほうが背伸びをして口を開く。 「食事は多めにして、部屋まで運んでください。それと……お風呂《ふろ》はありますか?」 「風呂? ああ、風呂ねえ」  常連の行商人たちも、最初は風呂が無いって騒いだっけ……。  女将は彼らの入浴好きを思い出し、納得がいったようにうなずいた。なんでも、ロマヌアでは毎朝毎晩、風呂に入るらしいのだ。それもたっぷりと湯をはった浴槽に浸《つ》かるとか、街には誰でも入れる大きな浴場があるとか……。 「離れ部屋には風呂があるけど、お国の浴場とは違うよ。それでもいいかい、お嬢ちゃん?」 「ええ、汗さえ流せれば贅沢《ぜいたく》は言いません」 「だったら用意させるよ。離れ部屋は、ロマヌア銀貨なら三枚だね」  相手がロマヌア人なので女将は少しふっかけてみたが、二階の常連客と違い、少女は値切りもしなかった。前払いすると言って皮袋から銀貨を三枚とり出し、カウンターに置く。  使用人が風呂の準備ができたと告げると、女将は離れ部屋の鍵《かぎ》を渡して言った。 「どうぞ、ごゆっくり」  二人が部屋を出ていくのを待って、彼女はズシリと重い銀貨をつまみ上げる。 「なんてまあ、気前のいいお客だこと」  女将は、目を丸くしてそうつぶやいた。  案内された離れ部屋は別棟で、裏庭に面した玄関があった。  ベッドが二つ、東南に窓が二つ、半地下式の風呂場に通じているドア……。  調度品も上等で落ち着いた感じの部屋だ。 「……これでよし、っと」  ロープの端をベッドの足にしっかりと固定したルフィは、軽く手をはたいて一息ついた。 「このまま休めってのか?」  ワイリーの抗議はもっともだった。彼は後ろ手に縛られたままなのだ。  ベッドに寝そべることはできるが、仰向《あおむ》けにもうつ伏せにも寝られない。 「食事の前に、お風呂に入りたいの。ほどくのは後でもいいでしょ」 「飯の前に風呂だぁ?」 「さっきレディに失礼なことを言った罰よ」 「どこがレディなんだか……」 「なにか言った?」 「いや別に。どうぞごゆっくり」 「そうさせてもらうわ」  ルフィは籠手《こて》や板付き鉢巻といった重い装備をはずし、ブーツを脱ぎ捨てた。  ホッとした顔で風呂場のドアを開ける。  と、すぐに次の扉があった。 「なによこれ?」  彼女はワイリーのいた地下牢《ちかろう》を思い出した。  二つのドアの間は脱衣所にしてはせまく、上には明かり取りの天窓が開いて日がさしている。 「知らねえのか? マスリック式の風呂だ。蒸気がもれないようにしてあるのさ」 「蒸気?」  ルフィは内扉を開けた。とたんに風呂場にこもっていた湯気が押し寄せてくる。  それだけで、流れる汗が倍になったような気がした。 「な、なんなのよこれ〜っ?!」  浴槽は無い。石畳の床の上に、木製の長|椅子《いす》が置かれているだけだ。  ランタンに照らされて、部屋の奥に真《ま》っ赤《か》に燃えた石がたくさん入った炉が見えた。上の容器からそこにポタポタと水がたれて、ジュウジュウと音をたてて蒸気に変わっている。  熱い蒸気で汗をかき、しあげに冷水で洗い流す……マスリックで風呂といえば、この蒸し風呂のことだった。 「どうすんだい? ロマヌアのお嬢さん」  ワイリーがからかった。ルフィが負けずきらいなのを承知の上でだ。  彼女は湯気を横目に、すまして答えた。 「あ、あら、気持ちよさそうじゃない。少なくとも汗は流せそうだわ[#「汗は流せそうだわ」に傍点]」  気は進まなかったが、とりあえず鎧をはずす。  胸当てで押さえつけられていた身体が本来のふっくらした形にもどるなり、ワイリーがヒュッと口笛を吹いた。 「へ〜え、女っぽいとこもあるわけだ」  ルフィは慌てて二つの扉の間にかけこみ、扉の陰から顔を出す。 「のぞいたら焼け石ぶつけるわよ!」 「のぞきたくてもロープが届かねえよ」  と、ワイリーが答える前に、バタン! と大きな音をたてて扉が閉まった。  風呂の内扉が閉まる。  じっと待っていたワイリーは、本物のネズミのようにコソコソ動きはじめた。 「おい、いねえのか?」  口を尖《とが》らせ、チチチッと舌を鳴らしては、虚空に向かって呼びかける。  そんな、気の触れたような行為を何度かくり返したあとで、彼は忌々しげに舌打ちした。 「だめか……ったく、だから田舎は嫌いなんだ。しかたねえなあ」  身体をゆすったかと思うと、今度は右肩の関節が痛そうな音をたてて外れる。  ゆるんだ隙間《すきま》から左腕を抜き取ると、縄抜けはあっという間に完了していた。  ルフィの縛りかたが甘かったのではない。ロープには繊維がボロボロにほぐれて切れかかっている部分がいくつもあった。  針金の切れはしを手に入れてからというもの、暇と隙を見つけては、針金の切口をロープにこすりつけていたのだ。織りこんである針金がいくら頑丈でも、ほぐれた分の隙間があれば肩は外せる。縄抜けにはそれで充分だった。  やれやれと首をふり、外すときより痛そうに顔をしかめて、関節をもとに戻す。  ロープをベッドの下に蹴《け》りこむと、ワイリーはベッドの上に身を投げ出した。久々におもいきり身体を伸ばして一息つく。  疲れているのは演技ではない。縛られていたので腕も痺《しび》れている。しばらく柔らかいベッドに身体を横たえていると、だいぶ楽になった。  風呂のドアを眺め、少しばかり気の毒そうな顔をする。  ちょっと可哀想《かわいそう》だが、ここで逃げれば彼女が危険にさらされることはなくなる。敵の狙《ねら》いは自分なのだから。  ルフィの荷物に手をつっこんで、山賊の所有物だった短剣だけを拝借する。これなら「女子供から盗んだ」ことにはならないからだ。  奴《やつ》らは村で騒ぎを起こしてまで足止めをかけてきた。�針金ネズミ�の偽者の仕業かどうかは怪しいものだ。もし、あいつらが背後にいるのなら、こんな武器でもないよりはましだった。 「さて、素っ裸のベルフィード嬢は心残りだが、そろそろおさらばしますか」  おどけた調子でつぶやいたワイリーは、風呂場に向かってロマヌア式に一礼すると、出口へと向かう。  と、まだ触ってもいないのにノブが勝手に回った。  なにか変だ……そう思ったときには、身体はとっくに反応して飛びのいていた。  それで正解だった。扉が素早く押し開けられ、何かが飛び込んできたのだ。  しかもそいつは、ワイリーが一瞬前までいた空間を、鋭い鉤爪《かぎづめ》でかきむしっていた!  人間ではない。背丈は人の半分くらいで、泥みたいな色をした湿っぽい皮膚の生き物だ。  ギョロリとでかい猫みたいな目をした、見たこともない醜怪な怪物だ。  そいつが彼を睨みつけ、シャーッ! と、かすれたような声で吠《ほ》えた。 「こ、この野郎っ……! 間が悪すぎるんだよ!」  ワイリーは小声で罵《ののし》った。  窓のほうでも乱暴に鎧戸《よろいど》を破る音がした。  破れた窓から、目の前の小鬼とそっくり同じ顔がのぞいている。  ワイリーは。ジリジリと部屋の奥へと後ずさった。  板二つを隔てた天国と地獄……。  背後の風呂場からは、ふんふんとルフィの鼻歌が聞こえてくる。 「ワイリー・マイス、騒がしいわよ。逃げるつもりじゃないでしょうね?」  戸口と窓から、敵が迫ってくる。素早い動きだ。  ワイリーは短剣を抜いて叫んだ。 「逃げたくても逃げられねえよ!」 「それもそうね。出たらすぐにロープをほどいてあげるわよ」  のんきな答えがかえってくる。  小鬼が鉤爪をふるった。  飛びのいて避ける。  風呂場の扉が背中に触れる——もう後がなかった。  顔をゆがめた小鬼が、ベッ! と、汚らしい音をたてて緑色の唾《つば》を吐いた。  唾が壁にへばりつき、木材がシュウシュウと煙を上げて溶ける。  ワイリーは、うんざりしたように呻《うめ》いた。 「なんで俺ばっかり、こんな目にあわなきゃなんねえんだ!」 「わかったってば、すぐにほどいてあげるわよ。大げさなんだから……」とルフィの声。  入浴中の小娘に文句を言う暇はなかった。  二匹の怪物が、今にも唾を吐くぞとばかりにガラガラと喉《のど》をならし、一斉に飛びかかってきたのだ。  たちこめる蒸気の中でじっと目を閉じていると、身体が火照《ほて》ってくる。  初めのうちこそ蒸し暑さに閉口していたルフィだが、蒸気に慣れれば、マスリック式の風呂《ふろ》もなかなか快適なしろものだった。熱気を我慢して汗をかいて、部屋の隅にある井戸の水で洗い流せば、さっぱりするし疲れもとれるだろう。  ルフィは、ロマヌア人の中でも風呂好きなほうだ。このときばかりは、鎧やクルクスをはずして護民官を忘れ、一人の少女に戻れるから……。  タオルを巻いてベンチに腰を下ろすと、髪をほどいて一息つく。  ようやく、頭が論理的に働き始めた気がした。たてつづけに起こった奇妙な事件の、腑《ふ》に落ちない点が徐々に見えてくる。それは、意外なくらい単純なことだった。もっとも、全ての答えを出すには情報が少なすぎるが……。  ワイリーが何やら悪態をついたので、声をかけてなだめる。  認めたくはないが、彼にも何かと助けられた。ちょっとつらくあたり過ぎたかな、と反省もしている。そろそろ出たほうがいいかしら……。  立ち上がったルフィは、井戸の水をくんだ。  一糸まとわぬ姿で水を浴びて髪を洗うと、冷たい水が体の芯《しん》まで目覚めさせてくれる。  さっぱりした顔で、彼女は�針金ネズミ�に声をかけた。 「床屋だけで風呂は入ってないんでしょ? 後であなたも入っていいわよ」  バン!  と、内扉が勢いよく開いたのは、その直後だった。  短剣を手にしたワイリーが、ダッと飛び込んでくる。 「なっ……ちょ、ちょっと! 今すぐ入って来ないでよお!」  ルフィがそんな間抜けな反応をするまでに、たっぷり二秒ほどの沈黙があった。 「ち、ちがう! 非常事態なんだ!」  素っ裸のルフィに睨まれ、ワイリーは慌てて弁解した。  背後に敵が迫っているのに、湯気に見え隠れする白くてしなやかな肢体につい頬《ほお》がゆるむ。  あいにくと視界は悪いが、ルフィはやっぱり上玉だった。それも、とびっぎりの。 「う〜ん、護民官にしとくのは惜しい!」  ルフィの頬が、パッと朱に染まる。 「このっ……このドスケベネズミっ!」  目の保養をしている暇はなかった。手早くタオルを巻いたルフィが、スコップを手に真っ赤な焼け石を山ほどすくい取ったからだ。  前門の焼け石、後門の鉤爪……! 「だ、だめだこりゃ」  ワイリーは情けない声でつぶやいた。つぶやきながらも風呂場の梁《はり》に跳びつく。  背中に小鬼が迫った瞬間、全身に焼け石をくらう寸前に、彼はルフィと小鬼の双方の視界から消え失《う》せていた。  ルフィの放った十数発の焼け石が、�ドスケベネズミ�のいた空間を通り過ぎる。  一番驚いたのは小鬼だったろう。彼はワイリーを無視して、ルフィめがけて跳びかかろうとしていたのだ。踏み込もうとした瞬間、カウンター気味に熱せられた石がめりこみ、湿った泥色の皮膚から、ジュッと蒸気が立ちのぼる。  小鬼は、風呂場の床をゴロゴロと転げ回り、シャッ! シャッ! と声にならない断末魔の悲鳴を上げた。みるみるうちに形がくずれ、腐った泥と水草の塊となって動かなくなる。  生き残った一匹は、押し入ってきた鎧戸から抜け出そうとしていた。  ルフィは呆然《ぼうぜん》と怪物の死体を見つめたまま、動けないでいる。 「なにやってんだ!」  梁から跳びおりたワイリーは、窓へと走って顔を出した。  怪物は、裏庭を突っ切って逃げていく。馬に乗った黒服の人物が何か命じているのが見えた。  小鬼はしきりと唾をとばし、情けない声で主人に窮状を訴えている。聞いていたそいつー顔はフードに隠れてわからない——が、不意に顔を上げた。  ワイリーが窓の陰に隠れると、蹄《ひづめ》の音が逃げるように遠ざかっていく。 「山賊の次は化け物かよ……」  改めて窓の外をのぞこうとしたそのとき、背後で鋭い声が響いた。 「ワイリー・マイス、おとなしく短剣を捨てなさい!」 「わ、わかった、わかったって……」  ため息をついた彼は短剣を床に放り、殴られないようにゆっくりと向き直る。  そこには、小鬼の何倍も恐い護民官が、下ろし髪でタオルを巻いたままの格好でクルクスを片手に待ち構えていた……。    ㈽ 「やっぱり逃げるつもりだったのね!」  ルフィの怒りは、なかなかおさまらなかった。  ベッドに腰を下ろし、乾いた栗色《くりいろ》の髪を丁寧に編んでいる間も、クルクスを手の届くところに置いている。ロープはボロボロで使いものにならなかった。  隣のベッドに寝そべったワイリーが、心外とばかりに熱弁をふるう。 「痛くて眠れないんではずしたんだ。地下牢での床屋と同じさ。そこへあいつらがきて……」 「で、のぞきをしたってわけ? ルストについたら、全部報告しますからね」 「だったら忘れずに焼け石のことも報告しろよな。あんなもんぶつけやがって、ひっでえ護民官だよな。死んだらどうすんだ!」 「あ、あれはついはずみで……悪かったわよ、ごめん」  いくらあたしでも、お風呂で護民官らしくなんかできないもの……と、心の中でつぶやく。  風呂場でのことを思い出したのか、ワイリーがしまりのない笑みを浮かべる。 「何がおかしいのよ!」 「いやなに、なかなか息の合ったコンビネーションだったなあと……」 「パイドが襲ってこなかったら、逃げてたくせに」 「あの化け物、知ってんのか?」  また話をそらして……と思いながらも、ルフィはうなずいた。  ロマヌアの生物については一通り学んでいる。パイドは、ルストよりずっと南の湿地帯に生息する生き物だ。ものを溶かす毒液を吐き、水には強いが高熱や乾燥に弱い。 「つまり、ここらにはいないんだな」 「ええ、普通はね。誰かが操ってたのよ」  ワイリーが見た人物は、パイドを飼い慣らしたか、魔法で操っているかしているのだ。 「厄介だな」 「これも偽者がやったの? 本気でそう思う?」  クルクスをベルトにはさんだルフィは、�針金ネズミ�の顔をのぞぎこんだ。  灰色の瞳《ひとみ》が、嘘《うそ》を一つも見逃すまいと輝いている。 「……わからん。そっちの意見が聞きたいくらいだ」  目をそらし、肩をすくめるワイリー。  ルフィは疑わしげに眉《まゆ》をひそめた。それでも、腕組みすると、室内を往復しながら話し出す。 「森での待ち伏せに、村での事件、そしてさっきのパイド……どこか変だと思わない?」  本棚で塞《ふさ》いだ鎧戸《よろいど》の手前で、彼女はクルッとふり返った。  一本に編んだ長い髪が、ピョンと跳ねる。 「あたしなら�針金ネズミ�を殺すのに、こんな手ぬるいことしないわ」 「そうだな。自慢のクルクス・マヌアールスで、いちころだ」 「茶化《ちゃか》さないでよ」 「けど、さっきの化け物は俺《おれ》を殺す気だったぜ。手ぬるくはなかった」 「そうかしら。あなた、あいつに何かされた?」 「うっ。実害はなかったが……」 「でしょ。なんか、様子が変だったもの」  部屋のはしまでいって、ルフィがふり返る。  パイドは、彼に逃げるチャンスを与えようと風呂場のルフィを狙《ねら》ったのだ。  ところがワイリーは、どんどん風呂のほうへ逃げた(スケベだから?)。彼を傷つけるなと命じられていたパイドは、邪魔だから追い払おうとしたのだろう。  昨晩の襲撃にしても初めから矢を使えばよかったし、噂《うわさ》を流して村人に任せるのも殺すには不確実な方法だ。  そう、敵の狙いは別にあった。 「誰かはわからないけど、�針金ネズミ�をルストに連行されると困る人物がいるのよ。でも、何らかの理由があって、あなたを殺すわけにもいかない……」  だから、護送が失敗するようしかけた。二人を足止めするために村の子供を殺し、�針金ネズミ�の噂を流すほどだ。手段を選ばない大胆さが、組織的な陰謀を感じさせる。  ワイリーの偽者なんて、使い走りに過ぎないのではないか? 「ともかく、あなたが『脱走してルストに戻らない』というのが、そいつの望みなのよ」 「そうか! 気づかなかった。そういうことなんだ! 合点がいった……なるほどね」  その後もなるほどを連発しながら、ひょいと起き上がってワイリーが笑い出す。  ルフィは、ムッとして立ち止まった。 「なによ、人が真剣に考えてるのに」 「いや、感心してるんだ。さすがは鬼ヘイの娘だ、ってな」  ルフィは、怖い顔で彼を睨みつけた。  話の腰を折るのに、ずいぶんひどい手を使うのね……。 「ワイリー・マイス、あたしの前で二度と父の話をしないで」 「なんでだ? ルスト生まれの泥棒が、名護民官《パトローネ》と認めてんだぜ、もっと喜べよ」  怪訝《けげん》そうな顔に、脳天気で無神経な言葉……そう、彼はずっとマスリックにいたのだ。 「父はね、二年前のフロス討伐戦争に従軍して亡くなったの」 「死んだ? 鬼ヘイが?」  ワイリーは心底驚いている。やはり知らなかったのか。  しかたないわね……。  治りかけの傷口をほじくり返すような気分で、ルフィは重い口を開いた。  ことの発端は、フロス討伐のきっかけとなったある事件だった。  交易地の商館を回ってロマヌアの国庫に納められる大量の金塊を輸送していた馬車が、小国フロスの軍勢に略奪されたのだ。  馬車の通りかかった村は全滅し、莫大《ばくだい》な額の金塊が残らず奪われるという、ロマヌアにとって屈辱的な出来事だ。当然ながら調査が進められた。  その結果、ヘイズォトに嫌疑が及んだのである。彼が護民官の立場を利用して輸送ルートの情報を入手し、フロス側に売り渡したと……。 「たまたま事件のあったスース村の資料を集めていただけなのに、ひどい言いがかりよ。でも、父は査問会議の席で否定も肯定もしなかった」  疑いを晴らそうとしてか、その後の討伐戦争で、護民官を辞したヘイズォトは一兵卒としてガレー船に乗り組み、危険な任務に志願した。  疑われたまま、沈黙を守って死んだのだ。  自分が正しいと信じるなら釈明すべきだし、事実なら罪を認めるべきなのに……。 「だから、今では父を良く言う人は少ないの。もういいでしょ」 「すまん……」 「慣れてるから平気。あなたこそ顔色が悪いわ」 「いや。なんでもない」  自己嫌悪に陥ったのか、ワイリーは神妙な顔をしてうつむいている。  ルフィは父に感謝したいくらいだった。今なら、彼も話をそらしたりしないだろう。 「ねえ、ワイリー・マイス、連中が『あなたを殺せない理由』って、何かわかる?」 「……ああ、見当はつくな」  ほんの一瞬だけ躊躇《ちゅうちょ》してから、ワイリーはうなずいた。  それは何かと問いたい気持ちをぐっと押さえて、ルフィは続けた。 「話したくなければいいわ。ただ、捜査に協力する気はない?」 「また、取り引きか」  彼女はうなずいた。相手が何者で、なぜワイリーを逃がしたいのか? わからないままに襲われるのは腹が立つ。この世で、理不尽なことほど許せないものはないからだ。 「ルストまで逃げずに同行して欲しいの。任務の間、あたしだけは確実にあなたの味方よ」  護民官と犯人ではなく、二人が協力して旅を続ければ敵もポロを出すかもしれない。 「ふ〜む」 「あなたが逃げても、喜ぶのは連中だけなのよ」 「……わかった、協力しよう。で、俺は何をすりゃいい?」 「べつになんにも。あなたが捜査を手伝うのは規則違反だもの」  協力するなら、今後は縛らないし、新しい服や馬も調達する。そう条件を提示すると、ワイリーはようやく笑顔を取り戻した。 「ついでにもう一つ。食事に酒がつくってのは?」 「だめよ、表向きは今まで通りなんだから。ちょっと……本当に逃げないんでしょうね?」  ルフィが疑わしげに見やると、ワイリーは真剣な顔でうなずいた。 「�錆色《さびいろ》の血族�に誓って、�針金ネズミ�は逃げない。ルストまであんたにつき合う」  おごそかに誓いの言葉を述べるワイリー。  ルフィは、きょとんとして言った。 「何に誓うって? 泥棒の神様かなんか?」 「ちがう。それも職業上の秘……」  ワイリーが不意に口を閉ざした。  戸口に人の気配がしたのだ。ルフィも無言でクルクスを抜いていた。左手で短剣を引っぱり出し、相棒になったばかりの泥棒に放ってよこす。  武器を構え、素早く扉の両脇《りょうわき》に分かれるルフィとワイリー。 「お嬢ちゃん、開けとくれ。ご注文の食事だよ!」  ノックと同時に女将《おかみ》の声がした。  ゆでた肉と豆のいい匂《にお》いが、扉の隙間《すきま》から漂ってくる。  二人は、ふうっと息を吐いた。 「ようやく朝飯と寝床だぜ」  ワイリーが言った。 「もうお昼よ」  ルフィが言った。    ㈿  そろそろ、顔見知りが身体をほぐしに来る頃だ……我慢できるぎりぎり限界まで熱い湯に浸《つ》かっていたプリニウスは、広々とした大理石の浴槽から上がって一息ついた。  沸かした湯が最初に流れ込んでくる第一浴槽には、他に客は一人もいない。医者からは、ぬるめの浴槽に入るよう言われているが、守ったためしはなかった。  ルストには、通りの数だけ公衆浴場がある。  どんな小さな浴場でも、食事ができ、くつろいで談笑し、身体を鍛える施設がそろっていた。  たいした書物はないが図書室だってある。当然、マッサージをサービスする部屋もあった。  明るいうちは役宅のそばの浴場がすいているので、彼は朝からずっとここに逃げ込んでいた。  屋敷でマリオルトの部下デモクスと顔をつき合わせて、ルフィを心配しているのはうんざりなのだ。手塩にかけた護民官を危険な任務に送り出したきりで知らんぷりというのは、性に合わなかった。ここで半日もねばっていれば、目当ての人物に会える。  プリニウスは、しわの寄った身体に香油を塗ってもらい、石の寝台にうつぶせになった。  隣にいる太った男が声をかけてくる。南方生まれの褐色の肌が、香油でてらてらと光っている。目当ての人物——魔術師のネウトスだった。 「占いに出ておったぞ。わしに何か用かな、プリニウス?」  マッサージ師に、あまりきつくしないように告げてから、彼はネウトスに応じた。 「そんな風に話しかけられれば、誰でも用事の一つも思いつくさ。で、お前さんは自分の占いが当たったと大騒ぎするって寸法だ」  商売の邪魔をするなと苦笑した魔術師が、背中を指圧されてグッとうめく。 「あまりいじめんでくれ。魔術師なんて割に合わない商売なんだ。疲れるばかりで大したことができるわけじゃあない。占いや呪《まじな》いの稼ぎのほうがいいんだからな」  どんな魔法だろうと、使えば絶対にごまかせない。跡が残るからだ。調べようでは、不可思議な力の痕跡《こんせき》から魔術師を特定することさえできた。  原理を理解できなくとも、法律で厳しく管理できるからこそ、ロマヌアでは魔術師が容認されているのだ。最寄りの都市に自分の『力の痕跡』を登録していない者が魔法を使えば、問答無用で逮捕された。  なぜもっとましな職を選ばなかったとプリニウスが問うと、ネウトスは、魔術師になれば透明になって女湯をのぞけると思ったからだと答えた。 「無駄な努力だった。質量と大脳の発達の問題でな、小さな子供なら何とかなる。だが、わしを透明にするには、どれほどの魔力が必要か……見当もつかん」  ネウトスは、横たえた巨体をゆすって笑った。 「しかもだぞ、子供ならわざわざ透明にならなくたって、初めから女湯に入れるときた」  くだらない冗談を聞き流し、プリニウスは言った。 「用事はあるんだ。�耳�が魔術師を雇っているかどうか知らんかね」 「わしのようにか?」  ネウトスは平然と答えた。そう、この男は風呂《ふろ》での顔なじみであると同時に、プリニウスの知る唯一の�耳�への協力者なのだ。街をうろついては、�耳�に貴重な情報を提供することで金を得ている。  ネウトスは、マッサージの合間に首を振った。 「知らんな。少なくとも、わしは彼らに魔法のサービスをしたことはない」 「お前さんたちの秘術で、手紙を短時間にやり取りできるか?」 「できると答えるのは汚い魔術師だ。高い金をとって、二言、三言送るのがせいぜいだからな。わしなら『ハトをお使いなさい。早くて安くて確実で、文章もたくさん送れる』と答える」 「ふうむ」  うつぶせのプリニウスは、顔を伏せて考えこんだ。  ルフィと�針金ネズミ�は、すでにライモードに入ったらしい。遅れてはいるが、無事にルストに近づいているのだ。デモクスは、全てマリオルトからの情報だと言ったが……。 「あれを商人たちの連絡で伝えていると!?」  だとすれば�耳�の速さを侮っていたことになる。  ネウトスが言った。 「まてよ、一方通行ならできる。こちらの話を伝えるだけの魔法ならあるぞ」 「いやもういい。ありがとよ。あとで頼むことがあるかもしれん」  マッサージを早めに切り上げ、プリニウスは寝台を降りた。 「わしは、このことを報告せにゃならんが……?」とネウトス。 「かまわんよ」  プリニウスは、そう言って手を振ると部屋を出た。入口でそっと足を止め、中の様子を探る。  褐色の魔術師は、マッサージ師に何やら話しかけていた。 「……マリオルトに伝えてくれ、『プリニウスが�耳�のことを嗅《か》ぎ回っている』とな……」  唇を読んだ限り、ネウトスはそう言っていた。メッセージを受けた男の顔も覚えておくことにする。 「�耳�への協力者が誰か、確認できる良い機会というわけか……」  プリニウスは、ため息混じりにそうつぶやいた。    V  闇《やみ》の中で長い鎖が音をたてる。  村の女子供ばかりが羊みたいに追い立てられ、歩いていく……。  顔はわからない。震えてもつれる素足だけが、彼の目の前を通り過ぎていく。  いつもの悪夢だった——本当は、ライモードの宿屋で腹一杯に飯を食って、二ヶ月ぶりに風呂に入り、のんびり眠ってるはずの自分が、なぜか黒塗りの馬車の下にへばりついていた。  そうやって、あのときと同じ場所で、連れさられていく人々を見ている。  奴《やつ》らは場数をふんだ傭兵《ようへい》ばかり集めていた。その道のプロの仕事だ、こそ泥が一人で飛び出したところで助けられるわけがない。  地面に腹這《はらば》いになったまま、鎖の音から顔をそむける。反対側には御者と警備兵の死体が転がされていた。これも、あいつらの仕業だ。おかげで、ここまですんなりとお宝に近寄れた。  気にするなワイリー……気にしたら終わりだ、こいつを頂いて逃げることだけを考えろ!  夢の中の自分が、声に出さずそうつぶやいているのが聞こえるような気がした。  村に火が放たれたらしく、肉の焼ける嫌な匂いが漂ってくる。あいつらは細工に凝っている最中だ。馬車を見張っているのは一人。盗むチャンスは今しかない。  するりと抜け出し、背後から容赦なく一撃で仕留める。  鎖の音が止むことはなかった。大丈夫だ、気づかれていない……。  背中越しに、怒鳴り声や殴る音がして、あとからは悲鳴とすすり泣きが聞こえた。  馬車の先頭に忍び寄り、身体をぴたりとつけるようにして馬にまたがる——御者台は目立ちすぎるからだ。始めはゆっくりと、徐々に大胆に馬を走らせる。  奴らが盗まれたと気づく頃には、四頭立ての馬車はとっくに全速力で走り出していた。  背後で燃えさかる炎……。  重い鎖の音……。 「やめろ! もうたくさんだ!」 「起きなさい! 起きて、ワイリー・マイス!」  夜明け前の薄暗いベッド——肩をつかんでゆするたびに、ルフィの顎《あご》や腕から水滴がはね、彼の顔をぬらす。  うなされていた�針金ネズミ�が、青ざめた顔で、うっすらと目を開けた。もとから汗くさい囚人服が冷や汗でじっとりとぬれている。 「大丈夫? ひどくうなされてたわよ」 「みたいだな。起こしてくれて助かった……」  弱々しい声でワイリーが答える。  ルフィは、心配そうに彼を見つめた。右手にはクルクスが握られている。朝風呂の最中にワイリーの声がしたので、てっきり敵の襲撃と思って風呂を飛び出してきたのだ。  もっとも、今回は、ちゃんと肌着を身に着《つ》けてはいたが……。 「こういうこと、よくあるの?」 「起き抜けに尋問か、護民官」 「心配して言ってるのよ」 「いつもの悪夢だ。この先、安眠したきゃ、俺より先に寝るこったな」  ため息混じりに答えてから、石鹸《せっけん》の匂いに気づいたワイリーは笑みを浮かべた。 「また風呂かよ!」 「ええ、あたしはロマヌア人ですからね」と、微笑《ほほえ》み返す。  ワイリーの顔色が回復したのを確かめ、ルフィは肩から手を離した。自分のベッドに座り、ブーツを履いて鎧《よろい》を着け、鉢巻きに手甲《てっこう》……と、手早く身支度を整える。  しっかり睡眠をとって、風呂にも入れたし、体調は万全だった。  見張りもなしに休めたのは、ロープからとった針金で窓と扉に罠《わな》をしかけ、一応の安全が保たれていたからだ。どんな罠かは知らない。「ひっかかればわかる」としか�針金ネズミ�は教えてくれなかった。 「夜明け前にここを出られる?」 「なんとかな」  重たい身体を引きはがすように寝床から起きたワイリーが、もそもそと囚人服を脱ぎ始める。  ルフィは、慌てて後ろを向いた。  彼の要求した衣服——暗い色のゆったりした服と柔らかい革のサンダル——は、宿にいた行商人から昨日のうちに入手できたが、馬だけはどうしようもなかった。  馬を買うほどの路銀はないし、ツケで調達できる商館は、ずいぶんと先の村にあるのだ。 「しばらく、歩いてもらうわよ」 「履き物があるだけでも昨日よりはましだ」  彼がうなずいたとき、ノックの音がした。  三回、正確に同じ間合いでだ。  宿屋の女将ではない。  クルクスを抜いて忍びよろうとしたルフィの腕をつかみ、ワイリーが首を振る。  近寄るな! 碧色の瞳が、そう言っていた。  ルフィは無言でうなずく。  もう一度、同じようにノックの音が三回して、ドアノブが回った。  とたんに、部屋の隅にあった大きな衣装ダンスが倒れて轟音《ごうおん》をあげた。  獲物を正確にとらえた針金の輪が、絞《し》まりながらビュンとはね上がる。  両脚を縛りつけられた侵入者は、あっという間に宙づりになっていた。 「誰……これ?」 「知らん」  罠にかかったのは、身なりの整った穏やかな目をした年配の男だ。  貴族の使用人然とした男は、逆さまに吊《つる》されたまま、丁寧な口調で言った。 「失礼、私はファブリアーノ家の執事でラスロンと申します」 「そ、そうですか」  ルフィが、つられてお辞儀をする。  床から見上げているラスロンと目が合うと、彼は苦しそうに言った。 「差し支えなければ、この針金をはずしていただきたいのですが」 「いいのか?」とワイリー。 「早く外してあげて」  ルフィが慌てて言うと、彼はタンスを元に戻した。罠がゆるんで老紳士が降りてくる。 「ごめんなさい、てっきり……」  解放された執事は、服装や髪の乱れを直して笑いかけた。 「テオは賢い子だ。あの子の目に狂いはなかった。やはり、ロマヌアの護民官様ですな」 「えっ? ち、ちがいます、私は……」  言いかけたルフィの右手を指してワイリーが舌打ちする。  しまった、クルクスを……! 護民官の証《あかし》ともいえるクルクス・マヌアールスを手に、嘘はつけない。ルフィは、しかたなくうなずいた。  心なしか、執事はホッとしたように見えた。城に駆けつけたテオから話を聞き、朝一番に訪ねてきたのだと説明する。  ワイリーが聞いた。 「そうか、あの小僧は、あんたの城に……」 「昨晩は使用人部屋に泊まったのでしょう。この宿の女将は、もとは城の料理番でしたので」  そろそろ起きて城を出るころだ、などとにこやかに話してから、執事は姿勢を正していった。 「もし、護民官様が領内を通るようなら城にお招させよと主人に命じられております」 「はあ」  どうしよう? ちらっとワイリーに目をやる。彼は肩をすくめただけだった。  ファブリアーノって誰だっけ? ルフィは地図と一緒に暗記した資料の名前を思い出した。  エンリコ・ファブリアーノ子爵は、この辺りを治めているマスリックの地方領主だ。たしか、ライモードの先に城があったはず……。  彼女が考え込んでいるのを見て、ワイリーが口を開く。 「へ〜え、あのエンリコが、護民官をお呼びとはね」 「子爵のこと、知ってるの?」 「あいつなら俺たちの事を知っててもおかしくはない。司法官と懇意にしてるし、マスリックの貴族の中じゃ、随一の文官だ。切れ者というよりは、博識ってやつか」  へえ、そうなんだ……と、ワイリーの事情通ぶりに感心しかけたルフィは、仲良く話している護民官と泥棒を、執事が不思議そうに眺めているのに気づいて口をつぐんだ。  気をつけなさい、ルフィ! 表向きは普通の護民官と泥棒なんだから! 「黙りなさい、ワイリー・マイス」  咳払《せきばら》いをして、泥棒をたしなめるふりをする。  背伸びをした彼女は、執事に向き直った。 「それで、子爵は私にどんな御用が?」 「護民官に、ちょっとしたトラブルを解決していただきたいと……」  ロマヌアでは、規則の範囲内で、私的な捜査に護民官が雇われることもある。それを期待してのことだろうか? ちなみに新米のルフィは、個人的に雇われたことなど一度もなかった。 「今は任務中の身です」 「その点に関しても、当家がご協力できると存じますが……」  テオから聞いたのか、ラスロンは馬車を用意してきていた。これで城へ行けば、ライモードは無事に抜けられる。また、城を出るときには馬を進呈できると彼はほのめかした。  今度はワイリーが咳払いする。  損な取り引きじゃないぞ、話を聞いてみようぜ——碧色の瞳が、そう告げていた。  ルフィは言った。 「わかりました。招待を受けます。お話をうかがうだけになるかもしれませんが……」 [#改ページ]  第四章 ファブリアーノ    ㈵  三人を乗せた二頭立ての馬車と、並んで走る芦毛《あしげ》の馬とが、なだらかな山道を登っていく。  城はもう目の前だった。  ファブリアーノ子爵の城は、村から少し離れた丘陵地帯の真ん中に、ポツンと建っている。  城というにはあまりに小さいが、屋敷と呼ぶには形が整いすぎていた。  小さな塔を備え、城壁や城門もあり、丘の上なので水はないが、わざわざ堀を造って跳ね橋までかかっているのだ。  橋の手前で馬車を止めて御者台を降りた執事は、ルフィに手を貸し、彼女の馬の轡《くつわ》を引いてくれる。  跳ね橋を渡りながら、城を見上げたワイリーがつぶやいた。 「なんだか箱庭みたいな城だな」 「先代のフェルミ様は、こうした『道楽』がお好きな方でございました」  通用門を開けながら、ラスロンが懐かしそうな口ぶりで応対する。 「どうりで息子が堅物に育つわけだ」 「やめなさい」  さらになにやら注意しようとしたルフィを、ラスロンがやんわりと抑える。 「ヘイズォト様、しばらくここでお待ち願えますか」 「あ、はい……」  到着を主人に伝えに行くのだろう。彼は門番に声をかけて城の中へと消えた。  気勢をそがれたルフィは、それでも矛先を変えずにワイリーにささやく。 「子爵の前ではそういう失礼な口をきかないのよ。いいわね?」 「心配は無用です、護民官。私にかかれば貴族のまね事などお手のものですよ」  と、ワイリーが言った。  別人のように上品な言葉遣い、落ち着いたアクセントの言葉が、彼の口から滑り出したのだ。 「や〜ね、気持ち悪いからやめてよ」  気どった貴族の若者をまねた口調に、ルフィは思わずふきだした。しばらく笑ってから、それが詐欺に使われる技術と知り、チラッと睨《にら》んでみせる。 「おや、お気に召しませんかな?」 「やめなさいっての」  怒って顔をそむけたルフィは、城内のただならぬ雰囲気に気づいた。  異国の少女が珍しいのか、衛兵たちが入れ替わりに寄ってきては、門番に追い返されている。  朝日に照らされ、暑くなりはじめた中庭には、鎧《よろい》を着た兵士たちが芝を踏みしめる足音が響いていた。 「ずいぶん、ものものしいわね。何があったのかしら……」 「泥棒でも入ったんじゃねえか?」 「お待たせしました、どうぞお入りください」  ワイリーが茶化《ちゃか》した直後に、小走りでやってきたラスロンが言った。  城門をくぐり、本館に通された二人は、改めて先代子爵の酔狂ぶりを思いしらされた。  見通しが悪く曲がりくねった通路、螺旋《らせん》状の階段、頑丈な扉、狭い明かり取りと、手の込んだ造りは外見だけでなく内部にまで及んでいたからだ。  ただし、城そのものが小さすぎ、どれも実際の役には立たない。つまりこの城は、まがい物——全てが形だけの模型にすぎないのだ。  そう気づいたルフィとワイリーは、階段を登っていく執事の後に続きながら、こっそり顔を見合わせて笑いをこらえた。 「エンリコ様は、すぐにもお会いになるそうです」 「やれやれ、また朝飯抜きか」  ワイリーは露骨に嫌な顔をしてみせる。  クルクスで彼の脇腹《わきばら》を突いて、ルフィが言った。 「私たち……じゃなかった、私にすぐに会いたいなんて、子爵のトラブルは急なことなのね?」  少女の顔は、護民官のそれに変わっている。 「いえ、詳しいことは……」  ラスロンは珍しく語尾をにごらせた。 「あ〜あ、朝からインテリ子爵の道楽につきあうなんざ……痛っ!」  わざとらしく欠伸《あくび》をしたワイリーの腕を、ルフィが素早くつねり上げる。 「目が覚めた?」 「いいのか、ルストへ急ぐんだろ」 「聞くだけ聞いて、丁寧にお断りするわ」 「護民官のくせに領主の横暴を許すのか?」 「横暴かどうか、まだわからないでしょ!」  二人の争いをよそに、ラスロンは豪華な装飾の施されたドアをノックした。 「エンリコ様、ヘイズォト護民官をお連れ致しました」  部屋に入るなり、ワイリーが大きな咳払《せきばら》いをした。  素早くクルクスに手をやるルフィ。 「なんのつもり?」 「気を利《き》かせたつもりなんだが」  声に驚いて、窓際で身を寄せ合っていたカップルがふり向く。 「こ、これは失礼……」  ファブリアーノ子爵は、きまりの悪さを隠すようにロマヌア式のお辞儀をして言った。  なで肩で美形の、すらっとしたマスリック人——といって司法官のような色男の印象はない。もっと落ち着いた魅力がある。  女性のほうは顔を伏せ、彼の陰に隠れていた。黒い髪と透けるような白い肌の持ち主で、繊細な感じだ。小さくまとめた髪形や事務的な衣装が、かえって知的な美しさを際立たせている。  子爵は椅子《いす》を勧めたが、ルフィは立ったままで周囲を見回した。  くつろげる気分ではない。部屋中に積み上げられた書物から、カビ臭い匂《にお》いが漂っていた。  ここって書斎なのかしら? 書棚だけでなく、机や床にまで無造作に積み上げられた膨大な書物……まるで倉庫だ。ルフィの見立てでは、プリニウス長官の書庫に似ていた。予算を惜しんで�本の虫�がないところまでそっくりだ。これで必要な本が見つかるのだろうか? うちの長官は、全ての資料の場所を憶《おぼ》えているらしいけど……。  どうやら、ファブリアーノ子爵もプリニウス長官に負けず劣らずの勉強家らしい。 「ヘイズォト護民官、任務遂行中のところを御足労いただき、感謝いたします」  子爵が言った。彼はマスリックの司法官のように、彼女のプライドを傷つけるような態度はとらなかった。噂《うわさ》どおりの堅物ではない。外見で人を判断しないタイプなのだ。 「お気遣いは無用ですわ、ファブリアーノ子爵」  一人前に扱われたルフィは、嬉《うれ》しくてついつい頬《ほお》をゆるめる。 「聞くだけ聞いて丁寧に断る……じゃなかったのかよ」  ニコニコして答える彼女に、仏頂面のワイリーがささやいた。 「静かになさい、ワイリー・マイス」  ルフィが少し背伸びをして言うと、子爵は興味深げに�針金ネズミ�に目をやった。 「君が�針金ネズミ�かね?」 「いきなり失礼な野郎だな」と、斜に構えるワイリー。 「正真正銘のワイリー・マイスです。これが司法官からいただいた引き渡し証書で……」  ルフィが証書を出そうとすると、子爵は首を振った。 「司法官は有能な人物だ。証書に不備はないでしょう。しかし、それは書類上の話です」 「そう言われても……」  本物かどうかなんて、証明のしようがない。 「彼が偽者なら嬉しいのだが……」  暗い顔をして、子爵が独り言のようにつぶやいた。 「えっ?」  ルフィが思わず身を乗り出すと、陰にいた女性が遮るように口をはさんだ。 「エンリコ様、私は下がってよろしいでしょうか?」  ほつれた黒髪を気にしながら、充血した目で子爵を見上げる。 「そうだな。少し休んだほうがいい」 「すみません、こんなときに……」 「護民官もいらしてくれた、大丈夫だよ」  子爵が優しく背中を押すと、彼女はルフィたちに軽く一礼し、部屋を出ていった。  美貌《びぼう》に目を奪われたワイリーが短く口笛を吹き、またクルクスで小突かれる。  誰かしら? 子爵の奥方、じゃないわよねえ……と、ルフィは心の中でつぶやいた。 「あの方は?」 「先に紹介すべきでしたね。ヒルダです。彼女はスパランツァー伯の遠縁にあたり……」  長々と続く説明をルフィは聞き流した。どうせ、マスリックの貴族のことはよくわからない。 「ここでなにを?」  護民官の悪い癖だ。気づいたときには、詰問口調でたずねている。  真剣そのものといった灰色の瞳に見上げられて、子爵が当惑気味に答えた。 「蔵書の整理を手伝ってもらっています。六歳になるニコラの指導も……」 「司書兼家庭教師ですね。でも、どうして今、御一緒にいたんです?」 「それは……」とエンリコが口ごもる。  ワイリーが咳払いした。 「護民官、あんまし野暮《やぼ》なこと聞きなさんな。こちらの子爵様はな、奥方に先立たれて久しい身なんだ……たしか、そうだったな?」  うなずきかけた子爵の頬が、かすかに赤らむ。 「べ、べつに私は……彼女が責任を感じていたので、慰めようと、その……」 「はあ?」  ポカンと口をあけるルフィ。数秒後、ようやく二人の関係に思い当たり、アッと声をあげる。  このバカネズミ! もっと早く教えてよ!  ふんわりした頬が、みるみるうちに赤く染まった。孤独で純朴で独り身の地方領主と、若くて美貌の家庭教師……想像がとめどなくべつの方向へ広がっていく……。  ブルブルッと首を振ってから、彼女は言った。 「そ、それはともかく! 私を呼んだわけを教えてください」  子爵は、真顔に戻ってうなずく。 「息子のニコラを取り戻して頂きたいのです」 「『とりもどす』だぁ?」  ワイリーが嫌な顔をした。  まさか! ルフィは顔をしかめたりはしなかった。街道を塞《ふさ》いでいた村人たちの顔が浮かぶ。 「ライモードでの事件と関係がありますね」 「はい。恐らく、ニコラも�針金ネズミ�に……」 「なんですって!」  ルフィが反射的にクルクスをふり上げ、ワイリーが頭をかばう。 「俺《おれ》じゃないって!」 「そ、そっか、ごめん」 「ヘイズォト護民官、罪人の護送にしては、ずいぶんと拘束が緩やかなのですね」  子爵が不思議そうな顔をする。 「は、はい、ロマヌアでは市民の権利を尊重していますので……」 「母国で裁判を受けるのはロマヌア人として当然の義務だ。逃げたりはしない」  二人は、慌てて口をそろえ、普通の護民官と泥棒を装う。  咳払いして、ルフィが言った。 「で、ご子息がさらわれたのは?」 「一昨日の晩です。�針金ネズミ�が本物か聞いたのは、息子の身を案じたためと、正式にあなたの協力を要請するためでした」  さらったのが本物の�針金ネズミ�なら子供を殺さないし、ルフィも、そっちを捕まえて護送しなければならなくなる。  でも……ルフィは、ちらっと相棒を見上げた。ワイリーが小さくうなずく。  子爵には悪いが、彼が本物なのは間違いない。  ワイリーが軽くため息をついて言った。 「あのな、エンリコ。俺は、そもそも子供をさらったりしない」 「この男の意見に、私も賛成です」  軽く踵《かかと》を持ち上げたルフィは、無理して険しい顔をしてみせた。そうでもしないと気の毒で目を合わせられない。自分たちは二人して、「あなたの息子さんは偽者にさらわれました、だから殺されたかもしれません」と言っているのだ。 「やはり、領内を荒らしているのは……」  子爵が低い声でつぶやいた。  大した自制心だ。不安と苦悩を顔に出すまいとしていることぐらい、ルフィにもわかる。 「あの……」 「わかっています。本物を護送中の身ではしかたありませんね」 「ちがいます!」  叫んだルフィは、我慢できずに子爵の手をとっていた。  たとえ異国の地であろうと、悪事を見過ごすことなどできない。 「手伝わせてください! 私は犯罪捜査が専門だし、旅程なら余裕がありますから!」  子爵はゆっくりと目を閉じ、大きく息を吐いた。 「感謝いたします、ヘイズォト護民官……」  そう言って、手を握り返す。 「い、いえ、そんな……感謝だなんて」  ルフィが真っ赤になってうつむくと、ワイリーがムッとした顔で言った。 「おい、エンリコ、俺の偽者からは身代金の請求があったのか?」 「いや、まだだが」  眉《まゆ》を上げた子爵が、首を横に振った。  ポ〜ッとのぼせ上がっていたルフィは、自分の頭越しに火花が散ったのに気づいていない。 「なら、手助けできることなんてないと思うが」 「君に頼んではいない」 「ガキは城の中にいたんだろ、どうやってさらわれた?」 「それは……謎《なぞ》だ。ニコラは消えたのだ……一人で部屋にいたはずなのに!」 「消えた?」  ようやく我に返ったルフィが、声を上げた。    ㈼ 「そりゃ、道草食うのは、あんたの勝手だけどよ……」  あてつけがましく大きな欠伸を連発して、ワイリーはつぶやいた。 「馬鹿やってるのは、わかってるわよ……」と、うつむくルフィ。  二人は馬房の柵《さく》にもたれ、もらった馬に馬具がとりつけられるのを眺めていた。形だけの城には不釣り合いな馬屋は、本館とは別棟の平屋にあった。捜査の前に報酬の馬を選んでもらうようにと、ファブリアーノが執事に命じたのだ。  ワイリーは、ルフィがいつものように背伸び全開で「そんなことは後にして、今すぐニコラの消えた現場に案内してください!」とかなんとか抗議するのを期待していた。  ところがだ。あのインテリ野郎に、「はい」なんて可愛《かわい》い返事しやがって……ああいうのがタイプか? ったく、趣味が悪い。俺の意見なんざ素直に聞きゃしないくせに。 「『はいっ』だと、くそっ」  なんだか面白《おもしろ》くないワイリーは、居並ぶ馬の中から、とびきり高そうで上等な馬——足の速そうな青毛の駿馬《しゅんめ》——を選んでいた。  せめて、このくらい分捕っておかないと気が済まない。  さらに頭にくるのは、平屋にある使用人の住居にテオの姿がなかったことだ。  馬具をつけてくれている馬丁に聞いても、「朝起きたらいなかった」という愛想のない答えが返ってきた。ルフィが子爵に肩入れしてるんじゃ、俺の味方はあいつだけなのに……! 「任務はどうすんだよ?」 「だって、あなたの護送が原因で起こった事件なら放っておけないもの」  ワイリーはため息をついた。  この責任感だの正義感ってやつは、この小娘のどこから湧《わ》いて出るんだ?  ルフィがニンジンを差し出すと、芦毛《あしげ》の馬が首を伸ばして美味《うま》そうに噛《か》み砕いた。 「あなただって、偽者を捕まえたいでしょ?」 「う〜ん、まあな」  実はそうでもない。彼女の推理——あなたをルストに連行されると困る人がいるーを聞かされてからは、ルストへ急ぐべきだと思っていた。  だが、その理由は話せないでいる。もう少し時間が欲しかった。ルフィに殺されてもいいと[#「ルフィに殺されてもいいと」に傍点]覚悟が決まるまでは……。  彼がよほど恐い顔をしていたらしく、青毛を引いてきた馬丁がビクビクしながらこちらに目を向ける。恐怖心が伝わったのか、馬も鼻を鳴らして後ずさる。  ルフィが苦笑して言った。 「心配ないわよ。この�針金ネズミ�は、何もしないから」  青毛の鼻面を軽くなでた彼女は、皮袋の中から石筆のような短い棒を取り出した。棒の先端にはルビーのような小さな宝石がついている。ルフィはそれをペンみたいに持つと、馬体をなで回し、蹄《ひづめ》から足の付け根、背筋から鞍《くら》や鐙《あぶみ》、轡《くつわ》や手綱まで入念に探っていく。  なんなのか聞くのも悔しいので、黙って興味深そうに見つめていると「聞きたいんでしょ?」と呆《あき》れたような声でルフィが言った。 �検知棒�という道具だった。職業柄、魔術師を捜査することもあるので、護民官に支給されている。今は馬のどこかに呪《まじな》いがかかっていないかを調べたのだと彼女は説明した。 「ファブリアーノ子爵の馬に失礼とは思ったけれど、規則だから一応ね」  マスリックの商館で馬を調達したときも、二頭分これをやったので手間取ったのだろう。 「魔法を使うのか?」  彼が聞くと、ルフィはくすくす笑って言った。 「まさか! これはただの道具よ。触れた箇所の魔力を感知するの。こんなことも知らないなんて、あなたも魔法は使えないのね?」 「当然だ。ああいう、あやふやなのは嫌いでね」 「じゃ、地下牢《ちかろう》の鍵《かぎ》を開けたのは魔法じゃないんだ……」 「まだ考えてたのかよ」 「言ったでしょ、謎解きは嫌いじゃないって」  あんなの謎でも何でもないんだが……と胸中でつぶやいたワイリーは、大事なことを忘れていたのに気づいた。  ここは田舎ではない。まがい物ではあるが城なのだ。もしかしたら……? 試してみる価値は充分にある。  そう思って、チチッと舌を鳴らしたとたん、�検知棒�をしまったルフィが顔を上げた。 「どうかした?」 「いや、べつに」  ごまかしながらも耳を澄ます。どこか遠くで、チチッと返事が聞こえたような気がした。  ラスロンが現れたのは、そのときだ。 「お待たせいたしました。お二人とも昼食になさいますか? それとも……」 「ニコラの部屋を調べます」とルフィ。 「爺《じい》さん、護民官はな、昼食をとりながら検分したいんだとさ」  ルフィと腹時計がぴったり合っているワイリーが言った。  ニコラが消えたのは、なんの変哲もない子供部屋からだった。  石壁にたくさんある窓は、頑丈な鎧戸《よろいど》があって内側から鍵がかかっている。全部の窓を開ければかなり明るいのだろうが、今は、ランタンや燭台《しょくだい》の明かりでしか部屋の様子はわからない。  たとえ鍵が開いても、窓からの出入りは不可能だった。小さすぎるのだ。壁を登るか空を飛ぶかした賊が猫くらいの大きさなら侵入できるが、ニコラを連れ去るのは無理だろう。  扉は一つ。村で事件を聞いた子爵は、昨晩も戸口に見張りを立てていた。  天蓋《てんがい》つきのベッドが部屋の中ほどにあり、床には男の子が好きそうな木製の剣や馬の玩具《おもちゃ》が散らばっている。  ぐるりと室内を見回すと、ルフィは言った。 「ワイリー・マイス、あなたは何もしないで隅に立ってて」 「忍びこむのは俺の本職だぜ……」 「規則なの」 「やれやれ」  捜査権のないワイリーは、執事の手にした盆に載《の》った、薄切りのパンに塩漬け肉や野菜、チーズなどをはさんだ料理をつかむと、もぐもぐやりながら部屋の隅に行って壁にもたれた。  お手並み拝見という顔で、こちらを眺めている。  ルフィは彼を無視して料理をつまみ、ついでにラスロンに訊《たず》ねた。 「最後にニコラに会った人は?」 「ヒルダ様です。ニコラ様を寝かしつけて退室されました」 「ふうん」  美貌《びぼう》の家庭教師の顔が浮かぶ。彼女が雇われたのは一年ほど前らしい。 「ラスロンさんが最後にニコラに会ったのは?」 「夕食のときです。朝、参りましたときにはもう……」  先代からファブリアーノ家に仕える執事は、沈痛な面もちで答えた。  昨日の朝のことは、二人も子爵から聞いていた。彼と家庭教師とで部屋中を探したが、六歳の少年はあとかたもなく消え失せていたという。犯行声明を思わせる針金細工のネズミがベッドに転がっているのを、ヒルダが見つけただけだ。衛兵が信頼できるなら、少年は部屋を出ることなく消え失せ、さらわれたことになる。 「事件のあと、城を出たっきりで帰らない人はいる?」 「おりません。私もライモードを訪ねましたが、お二人を連れて戻りましたから」  子爵やヒルダにしても城を出て付近の捜索を行ったし、衛兵たちもそうだと彼は付け足した。 「抜け穴なんかないわよね……」  しゃがんで壁を探っていたルフィは、ネズミの穴を発見した。  背筋がゾッとして、思わず立ち上がってしまう。  もう! この城にもネズミがいるんだわ。出くわしたら嫌だな……。  不安げに辺りを見回した拍子に、ワイリーと目が合う。 「護民官、なんか変だと思わないか? 身代金も要求してこねえなんて」 「ニコラは生きてるわ。お金になるから、簡単には殺さない」  暗記した資料を頭の中で読み返し、ルフィはつぶやいた。  村の子供たちを平気で殺した(絶対に許さない!)�針金ネズミ�の偽者も、マスリックの王位継承権は無視できないはず……子爵の亡くなった妻は、王族の出身なのだ。 「あのなルフィ、俺が言いたいのは……」 「あなたは黙ってて」 「今のは独り言だ」  どこが! ルフィが言い返そうとしたとき、壁沿いをガサガサと何かの走る気配がした。  暗がりで、チチッという鳴き声がする。 「ネ、ネズミっ?!」 「退治してはおりますが、城にサビネズミはつきもので……どうかご勘弁を」  ラスロンが恐縮して頭を下げる。  部屋の隅で、またネズミが鳴いたような気がしてルフィは息を飲む。ワイリーの鳴き真似だ。 「もう、おどかさないでよ……!」  彼女をからかったわけではないらしく、ルフィが睨《にら》んでも反応はなかった。  ワイリーは壁にもたれたまま、小声でつぶやいていた。「本当か?」とか「いつだ?」と、まるで誰かと話しているような口ぶりだ。  近づいたルフィは、奇妙な声を耳にした。  直接、頭蓋骨《ずがいこつ》に響いてくるような、抑揚のない小さな声。  聞こえないのか、ラスロンが何事かとこちらを見つめている。 (盟主……我らは嘘《うそ》は言わぬ……)  辛うじて、そんな言葉が聞きとれた。声の主のかすかな気配もする。 「誰なの? なにと話してるの!?」  とたんに声がやみ、気配も消え失せてしまう。  ワイリーが言った。 「耳がいいな、護民官。彼ら[#「彼ら」に傍点]が言うには『ニコラは昨日の朝、三人が探しているときこの部屋にいた』とさ」 「ワイリー・マイス、質問に答えてないわよ」 「ああ、教えたくないからな」 「また職業上の秘密ってわけ?」 「そうだ」  ワイリーが当然という顔でうなずく。  ニコラが朝までここにいたですって? 彼ら[#「彼ら」に傍点]が言った? やっぱりこいつ、魔法でも使えるんじゃ……? ルフィが疑いの目を向けると、彼はひょいと壁から離れて言った。 「爺さん、エンリコはどこだ?」 「食欲がないとのことで、書斎かと……」  ラスロンが、まさかという目で�針金ネズミ�を見る。  ワイリーが意地の悪い笑みを浮かべて言った。 「誘拐犯がわかったぜ」 「ええっ!?」  薄暗い書庫で、彼はまた赤い線を引いた地図を広げていた。  一人になれる機会があれば、ここに来ている。  彼が見つめているのは、地図上のライモードと、その先にある小さな城だった。  城は赤い線から少し外れたところにあったが、大幅にルートを逸脱したわけではない。  まだ、彼の手の内と言ってよかった。  焦るほどの事態ではないと自分に言い聞かせる。  ただ、思い通りにいかないのが気に入らないだけだ。  せっかくの計画が無駄になったのは、忌々しい邪魔者のせいだった。秘密を知られた以上、消えてもらう必要がある。指示せずとも、彼らはそのくらい心得ているだろう。  ペンを青インクにつけ、ライモードに×印を書く。 「なぜだ�針金ネズミ�……なぜ逃げない?」  地図の上、ファブリアーノの城を、コツコツと爪《つめ》で叩《たた》き、彼はぼそりとつぶやいた。  脱走すれば、少しは慈悲深いところを見せてやったのに。愚かなネズミだ。  それともルフィが? ヘイズォトの娘が、こちらの思った以上に優秀だったのか?  判断を下すには、情報が不足しすぎていた。  もっと耳を澄ます必要があった。何ひとつ、聞き逃さないように……。 「逃げたくないのなら、追い込むまでだ」  偽者の�針金ネズミ�は抜け目がない。計画を切り替える頃合いは心得ているはず……。  やんわりとした網が、気づかないうちに鋭い刃のトラバサミに変わるのだ。 「ヘイズォト護民官の調書を抽出せよ。スース村での金塊強奪に関する資料のみだ」  男は�本の虫�に告げた。  ここで調べることは山ほどある。  時間のかかる検索のために古い書物から走り出る、虫たちの乾いた音が書庫に響いた。 「あいつらは嘘をつかない……鼻で嗅《か》ぎ、耳で聞いたことを話すだけだ。『乳臭い匂《にお》いと寝息が聞こえた』そうだ」  書斎へと向かう廊下をずんずんと進みながら、�針金ネズミ�は自信たっぷりに言った。 「賭《か》けてもいい、ガキはさらわれてない。城の中にいる」 「子爵が犯人だなんて……」  追いつこうと早足になったとたん、ワイリーが曲がり角で不意に立ち止まった。おかげでルフィは、鼻先から彼の背中に突っ込んでしまう。 「痛いわねっ!」 「これはこれは、失礼いたしました」  ワイリーが妙に気取った口調で言った。ルフィに言ったのではない。 「気をつけてください!」  ヒルダの声だ。  ワイリーの背中越しにのぞくと、車輪の付いた大きなワゴンを止めたヒルダが、冷ややかな目でこちらを睨んでいた。  木製のワゴンが、本の重みで軋《きし》んでキイキイいっている。 「高価な本ばかりなのよ、傷でもついたらどうするんです?」  ふうと息をついたヒルダが腰に手を当てた。事務的な服装のせいで、よけいに身体の線が際だって見える。美人なので怒った姿も絵になるのだ。  どうしたらあんなに魅力的になれるのかしら? ルフィの胸にチラッとそんな想《おも》いがかすめた。  と、ルフィを隠すようにして、�針金ネズミ�が猫なで声を出す。 「よろしければ、お手伝いしましょうか?」  こ、このドスケベネズミ!  ルフィは、相棒の鼻の下が伸びる気配を素早く感じとっていた。  ワゴンの下段は本で一杯だが、今のような衝突で崩れ落ちるのを防ぐためか、上段の天板には、二、三冊ほどの厚みで平らにしか積まれていない。 「なんなら何冊かお持ちして、ご一緒に……」 「結構です! 私の仕事ですから」  天板の本に伸ばしたワイリーの手を、ヒルダが払いのける。  と同時に、閃《ひらめ》いたルフィのクルクスが、さらに彼の手の甲を打ちすえていた。 「すみません。うちのバカネズミ[#「うちのバカネズミ」に傍点]が不作法を……」  ワイリーが悶絶《もんぜつ》しているうちに前に出ると、ルフィは言った。 「まあ、護民官もいらしたのですか?!」  ヒルダは恐縮したのか、すっと顔をふせる。 「その本は?」 「別棟の倉庫に保管する分で……ごめんなさい、急ぎますので」  つぶやくように言うと、彼女はワゴンを押して二人の脇《わき》をすり抜けていってしまった。  ワゴンを押す、キイキイと軋むような音が遠ざかっていく。  肩をすくめたワイリーは、また早足になった。書斎は目の前だ。  走って追いついたルフィは、ヒルダが玄関へと向かうのを確かめてから小声で言った。 「言っときますけどね、子爵は犯人じゃないわよ」 「司法官の次はエンリコか……マスリック人好きの惚《ほ》れっぽい小娘だ」 「ちがいますっ! あたしは護民官として……」 「いいか、エンリコなら執事の爺《じい》さんやヒルダ嬢に口止めができる。ひと芝居打ったんだ」 「はぁ? 何のために?」  言葉に詰まったワイリーは、少し考えてから言った。 「つまり、俺たちを城に呼んで足止めするため……かな」 「はぁ?」  さっぱりわからなかった。だったら、ワイリーの偽者が何らかの方法で子爵の息子をさらったというほうが、よっぽど筋が通る。馬房でのときといい、エンリコがからむと、彼は妙にイライラして、いつものワイリーらしくなくなる。  なんでだろう? 腕組みしてう〜んと唸《うな》ったルフィは、色々と考えた末に顔を上げて言った。 「あたし、なにか気に触るようなことした?」 「そんなんじゃない。とにかく、どうもあいつは怪しいんだ」  言い張ったワイリーは、ノックもせずに書斎の扉を開けた。部屋をのぞきこむ二人。  朝と同じ、カビの匂いと埃《ほこり》が漂ってくる。 「なによ、いないじゃない」 「ありゃ……」  書斎は静まり返っていた。子爵の姿はない。 「……護民官、なにかわかりましたか?」  突然、後ろから声がして、二人は飛び上がった。  子爵はずっと食堂にいたらしく、ルフィたちが食べたのと同じ軽食を手にしていた。 「ラスロンが食べろとうるさくてね……」  憔悴《しょうすい》しきった顔を引きつらせ、子爵は無理に微笑《ほほえ》んでみせる。  何か言おうとしたワイリーを黙らせて、ルフィは笑みを返した。 「大丈夫、お子さんはきっと無事です」 「ありがとう。ところで、ヒルダを見ませんでしたか?」 「ええ、彼女なら……」  さっき会ったと話そうとして、ルフィは持ち上げていた踵《かかと》をすとんと落とした。  あれ? なんか変じゃない? あれは子爵の指示で動いたんじゃないの……?  黙りこんでしまったルフィの代わりに、ワイリーがぶっきらぼうに答えた。 「山のような本をワゴンで別棟に運んでたぜ。ったく、重労働させやがって」  ルフィはうなずいていた。そうそう、ワゴンだ……。あれも、何か気になった。  軽く顔を上げた子爵が、ワイリーを見つめて眉《まゆ》をひそめる。 「何を言ってるんだ? 別棟に書庫はない」 「知るかよ。あの女がそう言ったんだ」 「二人とも静かにして!」  睨《にら》み合っていたワイリーと子爵がハッとたじろぐ。  ルフィは、疑問の答えを見つけようとするたびに、熱い湯や温《ぬる》めの泡|風呂《ぶろ》が恋しくなる効率の悪い脳|味噌《みそ》が恨めしかった。  ここはロマヌアじゃないのよ! ルフィ! 贅沢《ぜいたく》言ってないで考えるの!  いくつかの疑問が、頭の中でゆっくりと合わさっていく。  アッと声を上げるなり、彼女は踵《きびす》を返した。 「急いで、ワイリー! 犯人がわかったわ!」  言うが早いか廊下を走りだす。  子爵が後ろで何か叫んでいたが、ルフィは、ふり向きもしなかった。  どことなく嬉《うれ》しそうな顔で、ほいきたとばかりに�針金ネズミ�がこれに続く。  二人は、曲がりくねった階段を二段抜かしで駆け下りていった。    ㈽  馬に乗って通りすぎようとしたヒルダに、二人の門番が両手を広げて立ちふさがった。  城門の手前で、馬が首を振って立ち止まる。 「どうしました? 通しなさい、急用です」 「申しわけありません、レディ・ヒルダ。護民官の言いつけで……」 「調べが終わるまで誰も通してはならぬと……」  門は開けておき、人は出さないよう命じる——閉めれば敵は他から逃げるが、これなら逃げようとした者を確認できる——教本に忠実なルフィは、こういうところにそつがない。  片方の門番が、おやっというように目をこすった。  馬のたてがみが、鞍《くら》の前だけ平らに潰《つぶ》れているのだ。その奇妙な跡は、黒いマントを羽織って横乗りしているヒルダのスカートにもあった。まるで、そこに何かが押しつけられているかのようにだ。  なんだろう? 彼は、ぼんやりとそう思った。  ヒルダが眉を寄せ、困り切った様子で言った。 「お願い、エンリコ様の急な言いつけなのよ。護民官も承知しているわ」  美女に懇願され、門番は顔を見合わせる。 「では、念のため閣下に確認します。しばしお待ちを」 「いいえ、待てないわ」  おとなしくて上品な司書のヒルダが、いつもと違う冷ややかな口調でつぶやいたので、彼らは目を丸くした。  と、今度は別棟から、もの凄《すご》い勢いで芦毛《あしげ》と青毛の馬がこちらへ突っ込んでくる。 「捕まえてっ! その女が犯人よ!」  護民官の声が響いても、彼らはすぐには信じられなかった。  ヒルダ嬢が? 馬鹿な? そう思っただけだった。  背後で、シャッ! シャッ! という不気味な声が聞こえるまでは……。 「危ない! 後ろよ!」  クルクスで門を指した少女の声に、慌ててふり返ったときにはすでに遅かった。  忍び寄っていた二匹のパイドが、カエルのように跳ねて門番の喉笛《のどぶえ》を切り裂く。 「おとなしく通してくれれば、生きていられたのにね」  冷たく言い放ち、血まみれの屍《しかばね》を踏み越えたヒルダが鞭《むち》をならす。馬が弾《はじ》かれたように走り出した。両脇に、護衛のように小鬼がつき従う。  飛ぶように跳ね橋を渡った彼らを、白と黒の二頭の馬が追っていった。  蹄《ひづめ》の音が轟《とどろ》き、耳元で風が鳴る。 「あの魔女め、えげつねえことしやがるぜ」  足の速い青毛を巧みに操ってルフィの脇に寄せ、ワイリーが怒鳴った。 「どうして、あいつとわかったんだ?!」 「さっき、『匂《にお》い』を嗅《か》いで『音』を聞いたって言ったでしょ」  手綱を握りしめ、ヒルダと二匹のパイドから目を離さずにルフィは叫び返した。 「あなたの秘密の友人もニコラを見てはいない。彼女が寝る前に魔法で透明にしたの!」  もっと早く気づいていれば!  ニコラはあのワゴンの上にいたのだ。透明にされ、たぶん薬で眠らされて……。  ワイリーは魔女の色香に惑わされ、ルフィもカビ臭さとワゴンの軋《きし》む音にごまかされたのだ。  宿で襲ってきたのも彼女だろう。でも、なぜ? 一年前からあの城にいたのに?  考えている暇はなかった。  追いつ追われつ、三騎は丘のふもとへと向かう緩やかなカーブにさしかかる。 「馬の差が出たな」  片手で器用に手綱を操り、ワイリーが短剣を抜いた。  ヒルダの乗った馬がグングンと近づいてくる。パイドの吐く、泥みたいな息の匂いがした。  はさみ撃ちにするわよ——目と目で素早く会話するルフィとワイリー。  左右に分かれる寸前、ワイリーが言った。 「あ、でも護民官、俺《おれ》って手伝っていいのか?」 「ええっと……ば、馬鹿っ、こんなときに、ややこしいこと言わないでよ!」  一つだけ違反にならない方法が……などと考えた一瞬の遅れが、敵に隙《すき》を与えてしまう。  ヒルダが『透明なもの』を投げ捨て、右側のパイドがそれを受け止めるなり、パッと二手に分かれたのだ。彼女ともう一匹の小鬼は速度を上げてカーブに突っ込み、ニコラを抱えたパイドは道をそれて草むらを一直線に走っていく。  左側にいたルフィは、ぐんと馬を速めた。迷っている暇はない。自分はヒルダを追う……。 「人質を頼むわよ!」  返事は蹄の音にかぎ消されたが、ワイリーは、とっくに馬を草むらに乗り入れていた。こぶのある斜面を、パイドを追う青毛が飛ぶように走り去っていく。  あのまま逃げたりしない? まさか、そんなことないわよね……。  チラッと浮かんだ不安をふり払うと、ルフィは帯を指にからめてクルクスを握りしめた。  芦毛は、彼女の見込んだ通りの名馬だった。  乗り手の要求にしっかりと応《こた》え、右にふくらんだコーナーの終わりで内側に食い込み、ヒルダのすぐ脇《わき》に追いつく。  ルフィは、用心深くパイドの逆側から接近していった。 「止まりなさい!」 「生意気な小娘が!」  ヒルダが叫んだ。白い顔が苦々しげにゆがむ。  反対側にいたパイドが、スッと主人の馬の下に入った。猛スピードで走りながら、こちらの馬を狙《ねら》うつもりなのだ。あいつだけは要注意だった。  あの鉤爪《かぎづめ》に、果たしてクルクスの技が使えるかどうか……。 「呪《のろ》い殺してやる……」  パイドより先に、ヒルダが動いた。  手綱を右手で操り、ほっそりした左手を不気味にくねらせる。  魔法ぐらいで焦っていては護民官は務まらない。職業柄、任務の前には魔除《まよ》けをしてある。  大半の呪いは通用しないのだ。ただ、馬を狙われるとまずい。  そっちがその気なら遠慮しないわよーパイドを警戒しつつ、ルフィはクルクスを投げた。  アッという短い悲鳴。  伸びた帯紐《おびひも》が、ヒルダの右手に絡みつく。  ルフィは、渾身《こんしん》の力をこめて引き上げた。  手綱を一気に後ろに引かれ、ヒルダの馬が激しく嘶《いなな》いてブレーキをかける。  止まりきれずに竿立《さおだ》ちになったところで、ルフィは帯紐を大きく横に引いた。  鞍からずり落ちたヒルダが、生い茂った牧草の上を転がっていく。  彼女の前方に回り込んで、ルフィは馬を降りた。  帯で支えたから、大した怪我《けが》はしていないはずだ。  起きあがろうともがくヒルダの右手には、まだクルクスの帯がしっかりと巻きついていた。  長い帯紐をはさんで睨み合う二人。 「観念しなさい!」 「こんなことをして、ニコラがどうなってもいいの?」 「相棒がなんとかしてるはずよ」 「それはどうかしらねえ」 「あなたは何者なの!? なにを企《たくら》んで……」 「そうね。少なくとも、司書や家庭教師じゃないわ」  答えたヒルダの目線が、わずかに泳ぐ。  しまった! パイドがいない!  クルクスを手元に引き寄せようとしたときには、死角から飛びこんできた鋭い鉤爪に、あっさりと帯紐が切断されていた。 「形勢逆転ね……」  ゆっくりと右手の紐をほどきながら、ヒルダが残忍な笑みを浮かべた。  シャッシャッと、泥臭い息を吐いてパイドが迫ってくる。  強靭《きょうじん》な爪《つめ》の先に、門番の喉笛をえぐったときの血がこびりついているのが見えた。  素手で戦うには厄介な相手だ。 「護民官って、これなしでも戦えるのかしら?」  クルクスを重そうにぶら下げて、ヒルダが楽しそうにつぶやく。  パイドが跳躍した。 「くっ!」  こちらが反応する前に、脇腹《わきばら》の辺りで金属をかきむしる音がする。  鉤爪は、辛うじて鎧に阻まれていた。  ホッとする間もなく、敵が毒の唾《つば》を溜《た》めるガラガラという音が響く。  どうしよう? 「ワイリー・マイス……」  ルフィは、か細い声でつぶやいた。いないとわかっているのに、思わず隣を見上げてしまう。  パイドが青草を蹴《け》って跳ねた。  籠手《こて》で顔面をかばうので精一杯……やられる!  と、風を切る音が耳元をかすめた。  ギャッと鳴いて、小鬼が後ろへ吹っ飛ぶ。  大きな目玉に矢が突き刺さり、血が噴き出していた。  彼女の背後から誰かが矢を放ったのだ。  血の色に染められた矢羽……? ま、まさか!?  立ち上がろうとしたパイドに、さらに何本もの矢が突き刺さる。  最後の一本が命中したときには、針山のようになった小鬼は、悲鳴も上げずに絶命していた。 「なにするの!?」  ヒルダが叫んだ。  呆然《ぼうぜん》としてルフィの背後を見つめていた彼女の目が、恐怖に見開かれる。 「う、嘘《うそ》でしょ! なんで? いや、助けて……!」 「やめなさい!」  ふり向くまでもなく射手の意図を悟り、ヒルダに飛びついたが間に合わなかった。  真紅の矢羽が風を切る音。  目の前で、ヒルダの左胸に矢が深々と吸い込まれる。  彼女は、グッと呻《うめ》いて仰向《あおむ》けに倒れた。 「ヒルダ!」  ぐったりした身体を抱きかかえる。  彼女は何か言おうと口をぱくぱくと動かし、震える左手を伸ばしてルフィの耳に触れると、そのまま力尽きて動かなくなった。 「なんてことを……! この人殺し!」  ふり向きざまに叫んで、逆光に目を細める。  西に傾き始めた日の光を背に、汗まみれの男がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。 「命の恩人に、ずいぶんなセリフじゃねえか。ロマヌアの護民官さんよ」  貧相な赤毛に見覚えがある。  鎖で丸太に縛りつけられていたはずなのに……?  立ち上がったルフィは、取り戻したクルクスを油断なく構えた。 「あなた、どうやってここに!?」 「待ちな、あんたとやり合う気はねえよ」  質問には答えず、�赤毛のハッグ�は弓矢を寝かせて言った。 「クソネズミの野郎はどこだ?」  シャッ! パイドが怒り狂って鳴きわめく。  彼が草むらを走れたのは、ほんの数十歩だった。  ワイリーの挑発に乗って鉤爪をふり上げたとたん、彼の腕は針金の輪でくくられていた。  ラスロンを吊《つる》したときに使った針金だ。鉤爪をふるってもがけばもがくほど、食いこんだ輪がきつくしまって動きを奪う。  パイドの足元の牧草は、不自然な形にへこんでいた。  ワイリーは地面を見つめ、慎重に馬を操った。  投げ出された「透明な人質」を踏みつけないようにだ。  小鬼は必死に鉤爪で斬《き》りつけていたが、鋼線はそう簡単には切れない。 「言ったろ、おとなしくガキを渡せってな」  ワイリーはつぶやいた。 �針金ネズミ�には、これという得手の武器がない。どれも自己流に使いこなすが、とりあえずは、針金一本あればそれで充分だった。  馬を歩かせて、あがくパイドをズルズルと人質から離す。  散々に引きずり回して位置を決めると、適当なところで彼は馬を降りた。  鋼線を手に、ゆっくりと小鬼に近寄る。  こいつの素早さは危険きわまりないが、動きをコントロールすればたいした敵ではない。 「人間相手じゃこうはいかねえが……ま、猿みたいなもんだからな」  口笛でも吹きそうな調子で言うと、針金の輪をだらりと垂らす。  飛びかかってきたら、今度は足を封じてやるつもりだった。  ルフィが心配だ、さっさと片づけねえと——縛った腕の側から間合いをつめていくと、パイドがしてやったりというようににやりと笑った。  ベッと唾を吐きかけ、針金をあっさりと溶かしてしまう。 「そ、そんなのありかよ……」  焦った声に、パイドの笑みが大きくなった。  目にも止まらぬ速さで突進してくる。 �針金ネズミ�でさえ何一つ反応できない猛烈なダッシュ!  しかし、彼が何かする必要は一つもなかった。  飛びかかる寸前、パイドは何もないはずの空間[#「何もないはずの空間」に傍点]に足をひっかけ、己のスピードに見合った凄《すさ》まじい勢いで転倒したからだ。  完全な不意打ちの足払い——受け身も取れないまま、顎《あご》を地面に打ちつける。  首がボキリと音をたてて、いやな角度に曲がった。 「やっぱり、猿だったな」  ただ突っ立っていたワイリーは、焦るふりをやめて平然とつぶやく。  あとは、勝手に死にかけた敵に、短剣でとどめをさすだけだ。 「……悪かったなニコラ、痛かったか?」  彼は優しく声をかけると、パイドがつまずいた何もない空間に手を差し出した。  気に食わないエンリコのガキだが、子供に罪はない。  人質の姿が浮かび上がり始めたのは、そのときだった。 「護民官か? ヒルダに魔法を解かせたな」  どうやら、あっちも無事らしい。  少年を抱き上げようとしたワイリーの顔から、すうっと血の気が引いた。 「そんな、そんな馬鹿なっ!?」  ルフィは、足元で息絶えているヒルダに目をやった。  子爵をだまし、パイドを操って平然と門番を殺した魔女だ。殺されても同情の余地はない。  でも、彼女は命|乞《ご》いをしていたのだ。それを射《う》つなんて!  ルフィは、ワイリーが�赤毛のハッグ�を毛嫌いする理由がわかったような気がした。  そのハッグが言った。 「�針金ネズミ�の偽者がな、俺の鎖を解いてくれた。お返しに、奴《やつ》の頼みを引き受けたのさ」  こう見えて俺は義理堅いんだぜ、と笑ってみせる。  じりじりと後ずさったハッグは、あっという間にヒルダの馬にまたがっていた。イタチのような目が、ルフィの背後を見つめている。  ふり返って山賊の目線を追うと、城のほうで砂塵《さじん》が舞い上がっていた。子爵の手勢だ。  ハッグは、すぐにも逃げ出せる姿勢で再び口を開いた。 「奴が、あんたに伝えてくれとさ……」 「偽者が、あたしに伝言?」 「そうだ。ニコラとかいう貴族のガキをあずかってるんだと」 「嘘よ! あの子はさっきパイドが……」  否定しながらも、だんだん不安になってくる。  ヒルダも、ワイリーが追っていった人質のことを少しも気にかけていなかったではないか。  だったら、あれは誰なの……!?  触れた手が冷たい……。  明らかに「眠らされている子供」の感触ではなかった。  ワイリーは半透明の身体を抱え、そっと胸に耳を当てた。心臓の動いている気配もない。  人質ではない。それは死体だった……透明にされた子供の死体なのだ。  魔法が完全に解けて、恐怖に歪《ゆが》んだ少年の顔が露《あら》わになる。  子供はパイドに喉《のど》を切り裂かれていた。あふれた血は小鬼どもがすすってしまったのだろう。  ほんの少し、黒く乾いた血が服にこびりついているだけだった。 「くそっ! なんてこった!」  抱えた腕が震え出す。ニコラの顔は知らないが、この子がそうでないのは一目でわかった。  ヒルダは同じ手を使って、すでに子爵の息子を運び出していたのだ。  死んでいるのは知った顔——つい昨日、自分たちを助けてくれた少年だった。�針金ネズミ�を尊敬の眼差《まなざ》しで見つめてくれたあの瞳《ひとみ》は、固く閉ざされ、二度と開くことはない。 「お前のせいだ……」  歯を食いしばったまま、ワイリーは呻いた。 「畜生っ! この子は、お前のせいで死んだんだぞ、ワイリー・マイスー!」  テオは殺されたのだ……。  あいつら[#「あいつら」に傍点]に! 「子爵のガキがどこにいようが、俺の知ったこっちゃない」  ベッ! と、パイド顔負けの汚い音をたてて、ハッグは茶色く濁った唾を吐き捨てた。 「伝言だ、一度しか言わねえぞ。『ニコラは身代金と引き替える。受け渡しは三日後にヘルドアで。細かい指示は、ヘルドアに来てから伝える。身代金の額は……』」  ヒュ〜ッと口笛を吹いてから、彼は続けた。 「王族並みのでかい取り引きだな。『額は二十五万七千五百コレクタ、全てロマヌア金塊で支払うこと』」 「なっ……」  身代金としてはあまりに法外だ。子爵の領地をそっくり買ってもお釣りがくる。  ロマヌア政府の刻印が入った高純度の金塊でも、かなりの量になるだろう。  それにしても、妙に細かい要求ね……。  額の大きさに驚きながらも、ルフィは眉《まゆ》をひそめていた。  二十五万七千五百——半端な数だが、彼女には覚えがあった。父の疑いを晴らしたくて、いくつもの調書を閲覧するうちに憶《おぼ》えてしまった数字だ。  二年前、スース村で略奪された金塊の被害額と同じ……思わずそう言いかけて、危ういところで口をつぐむ。何かが頭の隅にひっかかっていた(お風呂《ふろ》で考えれば理由がわかるのに!)。  今は、こいつにそれを気づかれないほうがいい——そんな気がしたのだ。  こちらを探るような目をして、ハッグが言った。 「清貧の護民官様にゃ、縁のない金だな」 「子爵にだって払える額じゃないわ」  怒ったふりをして話をそらす。ワイリーがよく使う手だ。  ハッグが笑った。 「伝言はまだあるんだ。『金塊のことは本物の[#「金塊のことは本物の」に傍点]�針金ネズミ[#「針金ネズミ」に傍点]�に聞け[#「に聞け」に傍点]』とさ」 「ワイリーに!?」  わけがわからず呆気《あっけ》にとられているルフィを尻目《しりめ》に、ハッグが乱暴に馬の腹を蹴《け》る。  衛兵たちが、すぐそばまで迫っていたのだ。  遠ざかっていく馬の背から、ハッグは叫んだ。 「あのクソネズミがそんな大金を持ってるなら、俺がぶっ殺して全額いただくぜ! だからな、今度は容赦なく的にする、覚悟しとけ、ルフィさんよ!」    ㈿  魔女の亡骸《なきがら》を乗せた担架を引きずって、大きな灰色の馬が丘を登っていく。  残った数人の衛兵たちが、掘った穴にパイドの死骸《しがい》を投げ捨てて土をかけている。  ヒルダの血で赤黒く染まった草原に立ちつくし、途方に暮れたエンリコ・ファブリアーノが、その光景をじっと見つめていた。  悲しむのをこらえているようにも見える。彼にとってヒルダは、親しい家人でもあったのだ。 「弱りました。事実を隠して埋葬したものか、罪人としてさらすべきか……」  子爵は、そばにいるルフィだけに聞こえる声でつぶやいた。 「……お察しします」  踵《かかと》を持ち上げてルフィは言った。  その場限りの、とってつけたような言い方に、自分で自分が嫌になる。  でも今は護民官であることを支えにしていないと、心が折れて、泣き崩れてしまいそうだった。死んだのが、ヒルダだけではないと知ったから……。  衛兵の一人が小さな遺体を抱えていた。ワイリーがパイドから奪い返した人質だ。  エンリコが言った。 「テオの家族には、できるだけのことをします」 「……お願いします」  それだけ言うのがやっとだった。  情けなくて、みじめな気分……。  職務だからと毅然《きぜん》としているのにも限界がある。  人が死ぬことに慣れないと、優秀な護民官ではないのだろうか……? ううん、絶対にそんなことない! ルフィは、そう自分に言い聞かせた。  怒りも悲しみも感じないで、正義の味方になれるわけがない。 「……護民官?」 「あ、はい!」  子爵に話しかけられているのに気づいて、ルフィは顔を上げた。 「それで、ニコラは無事なのですね?」 「ええ、ヘルドアで私が交渉することに……」  彼女は言葉を濁した。だいたいのところは話したが、身代金の件はそうはいかない。  まずは金塊のことをワイリーに聞きだしてから……。  すっかり癖になってしまった仕草で隣に目をやるが、そこに相棒の姿はなかった。テオにしても、ワイリーのところへ駆けつけた衛兵が抱えてきたのだ。  あの馬鹿、先に城へ戻っちゃったのかしら? ほんとに薄情なんだから。 「すみません、ワイリー・マイスを見ませんでしたか?」 「さあ……」  子爵は首を傾げ、衛兵たちに問いただす。  テオを抱えた兵士が、仲間に少年の亡骸をあずけてルフィの前に進み出た。 「彼なら馬でどこかへ行きました。てっきり、護民官はご存じなのかと……」  ワイリーは「護民官に用事を頼まれた」と言って街道を南へ去ったらしい。  まさか!? ワイリーが脱走……?  青ざめたルフィに、兵士が手紙を差し出した。 「�針金ネズミ�が、これを護民官に渡すようにと」 「貸して!」  ひったくるようにして手紙を受け取り、鉛筆の走り書きに目を走らせる。 [#ここから2字下げ] 親愛なる護民官様へ。 気をつけろ。敵は俺たちのすぐそばにいる。この兵士はロマヌア語が読めないが、念のため、あんた一人で読んで、すぐに破って捨てろ(たしか暗記は得意だったよな?)。 ルフィは、カードゲームの手札を見るときのように、ふっくらした胸当てにぴたりと紙をつけ、そっとめくって手紙の続きを盗み見た。 敵は、俺たちのすぐそばで見てる。でなきゃ、テオが殺されるはずはねえ。 いいか、ルフィ。あの子がやられたのはあんたのせいじゃない。俺のせいだ。 だから、なんでもかんでも一人で背負い込んで勝手にへこたれるなよ。 ちょっとした用ができたので、ひと足先にヘルドアへ行ってる。 すぐに追いつかないと逃げちまうから、そのつもりで。 西岸裏通りの�灰色猫の館�で一日だけ待つ。 [#地から4字上げ]�針金ネズミ� [#ここで字下げ終わり] 「あ……あの裏切り者っ!」  丘を吹き下ろす風に、パッと紙吹雪が散る。  ワイリーに言われるまでもなく、ルフィは怒りに任せて手紙を破り捨てていた。  へこたれるな? 脱走した泥棒が、護民官に向かって、へこたれるなですって!?  いいわ、テオの仇《かたき》をとってやる。どこのどいつが、何を企んでるのか突き止めてやるわ——いつの間にか、ルフィの胸に、護民官の勇気と誇りと責任感とが蘇《よみがえ》っていた。  まずは、急いであのバカネズミを捕まえなきゃ!  と、馬に乗ろうとしたとたん、ルフィは子爵に腕をつかまれていた。 「護民官、ヘルドアなら明日でも間に合います。もうすぐ日も暮れるし、今夜は城に……」 「離して! ワイリー・マイスが逃亡したんです! このままではニコラも危ないわ!」  ふりほどこうとしたルフィは、エンリコの力が意外なほど強いのに驚いた。  子爵の目は、心配そうにこちらを見つめている。伝書バトをくれたときの司法官と同じ目だ。  マスリックの騎士道精神とやら……。 「女性に依頼したのは間違いでした。私のせいで、あなたを危険に巻きこむわけにはいかない」 「心配してくれて嬉《うれ》しく思います。でも、これが仕事ですから」  にっこり笑うと、クルクスでこじ開けるようにして彼の手を引きはがす。 「ニコラは必ず取り戻します!」  さっと芦毛《あしげ》の馬にまたがるや、ルフィは衛兵が動き出す前に一気に坂を下り、街道を南へと走り出していた。ワイリーが青毛に乗っていってしまったから、城にはこれより速い馬はもういない。追いつかれる心配はなかった。 「あのバカネズミ! 絶対に捕まえて……ぶん殴ってやる!」  一人、馬の背でつぶやく。  口ではそう言いながら、心配でならなかった。  ワイリーは、�赤毛のハッグ�に狙《ねら》われていることを知らないのだ。 「西岸裏通りの�灰色猫の館�……」  姿勢を低くしてスピードを上げながら、ルフィは忘れないように何度もつぶやいていた。 [#改ページ]  第五章 ヘルドア    ㈵ 「抽出終了! 抽出終了!」 �本の虫�の甲高い声が書庫に響く。  音に意識を集中していたはずなのに、彼は虫の知らせに少しも反応せず、広げた地図の一点をじっと見つめていた。  爪《つめ》の痕《あと》が刻まれた港町——地図には、大きな川が街の中心を流れていることが記されている。  古くてごみごみとした、迷路のような街だ。 「本当にヘルドアなのか……?」  耳を澄ませたまま、つぶやく。  逃亡したワイリーが、自ら護送のコース通りに進んでいるのだ。  顎《あご》をさすり、彼は考えを巡らせた。  あの街は一年前に徹底的に調べさせたはずだ。それなのに、奴《やつ》はヘルドアに向かっている。 「西岸裏通り……�灰色猫の館�……ネズミは、そこにいる」  誰かに言い聞かせるかのように低い声でつぶやくと、�本の虫�を黙らせるために、彼は古びた書物を開いた。  何ページかにわたって、二年前のスース村の事件に関する調査記録が集められている。  略奪された金塊は、ロマヌア政府所有の二十五万七千五百コレクタ。  輸送部隊の兵士を含むスース村の男たち六十二人が死亡し、残った百二十人あまりの女子供は全て連れ去られた——マスリックを経由し、遠方に奴隷として売り飛ばしたのだ。  彼の目当ては、ヘイズォト護民官の査問会の記録だった。首都ロマヌアで行われた、護民官の内部調査の結果である。  記録によると、鬼ヘイは、スース村に逃げた傭兵《ようへい》くずれを追跡していたと供述していた。  集めた連中のうちの手癖の悪いクズどもが、ルストで目を付けられたのだ。  あのときは人選が甘かった。だが、今回は精鋭をそろえている。 �針金ネズミ�がヘルドアより先へ行くことはあり得なかった。あとは息の根を止めるだけの罠《わな》にかかった獲物にすぎない。重要な役割を果たす護民官が、ヘイズォトの娘というのは、皮肉な巡り合わせだ。 「『法の神に誓って、私は輸送部隊の情報をフロスになど漏らしていない[#「フロスになど漏らしていない」に傍点]』か。言葉を選んだのに誰も気づかなかったとはな……ぼんくらばかりで命拾いした」  議事録を読み上げ、彼は笑みを浮かべた。やはり、ヘイズォトは我々に感づいていたのだ。  従軍した鬼ヘイを戦争の最中に消すことなど雑作ない——危険な芽を摘んだのは正解だった。  さて、そろそろ顔を出さなくては怪しまれる。  立ち上がった彼は、暗い書庫から出ていった。    ㈼  ヘルドアは、古くて汚い街だった。  どのくらい古いかというと、あまりに昔すぎて、今では名前さえ忘れられてしまった国の都だったほどである。  汚くてゴミゴミしているのは、密集した住居に多くの人間がひしめいているせいだ。  ロマヌア人が�庭�と称する内海に疫病が広まるときは、いつもここが感染源となった。  マスリックに属するこの街は、ロマヌアのそれに匹敵する重要な貿易港であるにもかかわらず、同国人にさえ、その汚さを馬鹿にされる。 「街全体が巨大なネズミの巣」と記した文人もいたほどだ。昼日中でも路地や川縁に平然とサビネズミがうろついている。  建物が密集しているので暗がりが多く、路地は曲がりくねっていた。  バランスを取るように、大きな通りには必ず広場がある。初めて訪れた者は広い道を見つけては曲がっていけばよかった。  逆に、せまい路地を選んでいけば、いつかは行き止まりに突き当たる。そこには必ず、下水道に通じる排水口があった。 「一年ぶりか……」  辛うじてすれ違えるせまさの路地——その突き当たりで、ワイリーは懐かしげにつぶやいた。  馬を飛ばし、ヘルドアについたのは翌日の朝だ。  手紙に書いたことは嘘《うそ》ではない。ルフィを待つ間、彼にはやることがあった。  尾行がないか確認し、石畳の端にある大きな鉄格子を持ち上げる。  吐き気をもよおす臭気も、さほど気にはならなかった。  もともと、ヘルドアの空気は淀《よど》んでいるのだ。  漆喰《しっくい》と木材とで造られた三階や四階建ての住居から、ありとあらゆる匂《にお》いが路地や水路に吐き出されてくる。昼夜に向きを変えて風が吹く海辺でなければ、とっくに息が詰まっているところだ。  それでもワイリーは、ここの濁った空気が好きだった。ゴミゴミした雰囲気も活気があって魅力的だとさえ思っている。屋根伝いにどこまでも行けるところも最高だった。  故郷のルストも悪くないが、ずっと清潔で整然としていて威勢がいい。あくまでここと比べての話だが、まっとうな街すぎて、泥棒は自然と住む地区が限られてしまう。  その点ヘルドアは、�針金ネズミ�がどこを歩こうと違和感がなかった。 「ルフィのやつ、怒ってんだろうな」  苦笑しながら排水口をくぐり抜け、石を削った梯子《はしご》を慎重に下りていく。  ここから先は、果てのないヘルドアの地下水路……夜より暗い真の闇《やみ》だ。  少なくとも、今のところは明かりの必要はなかった。真下へと下りるだけで、中を歩き回るつもりはないからだ。  とはいえ、今後のことを考えると、ブーツを新調しておく必要はある。  ぬるぬるとした側道に降り立つと、ワイリーは石の梯子に寄りかかった。  カサカサッと、本物のネズミたちが歩き回る音が響く。  彼が舌先を鳴らすと、すぐに同じような返事があった。  暗闇から聞こえてくる、抑揚のない小さな声だ。 (ようこそヘルドアへ、ルストの盟主……) 「久しぶりだな」 (一年と十五日ぶりだ。�針金でネズミを使うもの�よ) (協力の要請なら外にいる我らに声をかければよかろう。針金を所持していないようだが?) (否。ルストの盟主は律儀者なのだ)  何人かの会話のように聞こえても、相手がひとつ[#「ひとつ」に傍点]なのは承知している。独り言のようなものだ。ワイリーは黙って聞き流していた。  こうして闇の中で話していると、初めて彼らに会った幼い頃のことを思い出す。ルストの下水道で、彼らの秘密を知ったときのことを……。  追われて逃げこんだ暗闇で、盗みの修業を始めたばかりの少年が、粘ったタールの中でもがいている彼らの王族を助けたーそれが�針金ネズミ�の始まりだ。  錆色《さびいろ》の血族の特別な一員として契約し、ワイリー・マイスはルストの盟主になった。  今では長老として尊敬される身だ。彼らの知識や記憶は、ワイリーの年齢の何百倍も昔から保存されているのに……。  彼らの分析がすむのを待って、ワイリーは言った。 「俺《おれ》の預け物は無事か?」 (肯定……) (現在も我らの監視下にある。ヒトが侵入した記憶はない。高湿度による破損も最小限だ) 「堅苦しい言いかたすんなよ」 (理解不能。『堅苦しい』とは何か?)  ワイリーは議論につき合う気はなかった。 「とにかく無事ならそれでいい。今夜、またここに来るから……」  そう答えると、彼は梯子を登りだした。  もう覚悟はできている。  あとは、ルフィが�灰色猫の館�にたどり着くことを祈るだけだった。    ㈽  馬を引いて歩くのが申しわけないくらい細い路地——三階建ての薄汚い宿屋が、隣の建物の影に遮られ、屋根の先だけを夕日に照らされていた。その壁には、猫の形をした灰色の看板が、ツタの葉に隠れるようにひっそりとぶら下がっている。 「見つけた……ついに、見つけたわよ!」  ルフィは、血走った目で�灰色猫の館�の看板を睨みつけた。  後ろで芦毛《あしげ》の馬が不満げに鼻を鳴らす。主従ともに、くたくたに疲れ切っていた。  ルフィがヘルドアを嫌いになるのには、さほど時間はかからなかった。ルストにだって細い路地はいくらもあるが、地図を見て人に聞けば、目的地に着くことぐらいはできる。  ところが、この街ときたら!  休みなしで街道を走りに走り、ルフィは昼のうちにはヘルドアに着いていたのだ。それが、もう日が傾きかけている。  港にあるロマヌアの商館で、帰りの船を手配するついでにちゃんと道を聞いたのに、手紙にあった西岸裏通りを見つけるだけで一苦労だった。  花の女神ミトゥンの神殿の尖塔《せんとう》を目印に�トニの広場�に入り、橋を渡って街の中央を流れるヘル川の西岸に出るーそこまでは教わったとおりだった。入りくんだ迷路を抜け、ようやくたどり着いたのが、とても通りとは呼べない今の路地だ。  きちんと番地がふられ、区画整理されているルストの街並みとは雲泥の差だ。  もっと最悪なのは、ネズミの多さだった。カサカサと音がするたびに逃げ出したくなる。  とはいうものの、あたしもここにお似合いのひどい格好だけどね……。  宿屋の分厚いガラスに映った顔を見つめて、ルフィはため息をついた。  強行軍でにじんだ汗に、土埃《つちぼこり》がべっとりとくっついて、額や頬《ほお》は茶色く汚れている。途中でロマヌア式の浴場を何軒か見かけたのだが、ぐっと我慢して通り過ぎてきたのだ。  気を取り直し、窓の明かりを確認する。灯が見えるのは一階の窓だけだ。  ワイリーは無事だろうか? もしかして、寝てるとか? 「寝てたら、絶対に……ぶん殴ってやる……んだから!」  心配だなどとは一言も口には出さず、よろよろと石段を上がり、両開きのドアに手をかける。 「キャッ!」  あと一息というところで、ルフィは悲鳴を上げて石段に尻餅《しりもち》をついていた。  割りこんできた二人組の黒衣の男に、いきなり脇《わき》へ押しやられたのだ。 「危ないわね!」 「邪魔だ!」  顔も見ずに怒鳴った彼らは、乱暴にドアを押し開けて入っていってしまった。  立ち上がったルフィの目の前で、バタンとドアが閉まる。 「本当に嫌な街ね!」  偽者の�針金ネズミ�が、取り引き場所に選んだだけのことはある。  そっとドアを開け、ルフィは中に入った。  先客たちの背中越しに、四角いテーブルを囲む数人の客が一斉に顔を上げるのが見える。  食堂らしい室内は、思っていたよりずっと清潔だった(ネズミが一匹もいない!)。  客はどれも、一目では何者かわからない怪しい男ばかりだ。ワインの瓶が並び、夕暮れ時に近所の住人が一杯ひっかけている——そんな雰囲気である。  黒衣の男たちは、他の客もルフィも無視して、店の奥に声をかけた。 「お前が�灰色猫�か? ここにワイリー・マイスがいるな?」  なんですって? 驚いて奥をのぞきこむ。  と、厨房《ちゅうぼう》の入口に宿の女主人がいた。 �灰色猫�は、名前の通り、猫を思わせる短くカットした銀髪と鋭い目つきの持ち主——色っぽい女性だった。くびれた腰に軽く手を当て、小馬鹿にしたように二人を見上げている。  彼女は、欠伸《あくび》まじりに答えた。 「ワィリーなら泊まってるけど」 「いるんだな?」 「どうかしら。いっつも窓から出てっちゃうから迷惑してるの」 「部屋はどこだ?」 「三階へ上がって、右の奥よ」 �灰色猫�は、自分は関係ないというように肩をすくめてみせた。  男たちの目が、急な造りの階段へと向けられる。  偽者の手下……それとも、ハッグの?  クルクスを引き抜こうとしたルフィは、寸前で動きを止めた。黙って見てて——と、�灰色猫�が目配せしたのだ。 「用事ならどうぞ。好きに上がってかまわないわよ」 「そうさせてもらう」  銀貨を一枚、テーブルに放ると、男たちはドカドカと階段を登っていった。  追おうとしたルフィを、�灰色猫�が今度は首を振って止めた。  不気味な二人が上の階に消えると、テーブルの客たちがドッと笑いだす。 「人気者だ、�針金ネズミ�は」 「一年ぶりだからな。ヘルドアには味方も多いが敵も多い」 「まったくだ。さっきの奇妙な赤毛といい……」  ハッグじゃないわよね? ここが知られてるはずはないもの……と、思いながらも、ルフィはテーブルに身を乗り出していた。 「その赤毛はどこに? まだ上にいるの?」  泥まみれの少女の乱入に、五人ほどの客が目を丸くする。 「お嬢ちゃんもワイリーの手管にかかった口か?」 「可哀想《かわいそう》にな、その若さで」 「もしかして、ワイリーが『可愛《かわい》いけど手を出すと殺される』とか言ってた娘か?」 「とても護民官にゃ見えねえが……」 「あんたたち、人を見かけで判断すると痛い目にあうよ!」  ルフィがクルクスを抜くより先に、�灰色猫�が眉《まゆ》をつり上げて怒鳴った。  客たちを散々に叱《しか》りとばし、ルフィには笑みを浮かべてみせる。 「あの、私はルストの……」 「護民官でしょ。ワイリーから聞いてるよ。あんた以外の客は通すなってね」 「でも、さっきの二人は?」 「先に来た赤毛と同じ。空き部屋にご案内さ」 「あっ!」  ようやく合点がいった。彼女は、かくまう気のないふりをして部屋を教え、ワイリーの留守を自分の目で確認させたのだ。泊まっていないと言い張るより、ずっと怪しまれない……。 「ここはね、そういうわけありの宿屋なの。あそこで飲んでる連中も悪党ばっかり。護民官の来るとこじゃない。けど、�針金ネズミ�の相棒なら歓迎するよ……」  そう言って手招きした彼女は厨房を通り抜け、店の裏手にルフィを案内した。  川岸に面した壁に梯子《はしご》が立てかけてある。その先に、ドアがあった。  なんの足がかりもない三階の壁に、ドアだけがついているのだ。 「これを登るの?」 「ええ」  しかたなく梯子を登り出したルフィを見上げ、�灰色猫�がくすくすと笑った。 「珍しいねえ、あいつが女連れだなんて」 「逆です! あたしが彼を連行してるの!」 「そっか、ネズミも年貢の収め時ってわけだ」  と、笑い転げる�灰色猫�。  この人、ワイリーのなんなのかしら? ちらっとそんなことを思ったりする。 「いやまあ、べつになんでも構わないんだけど……」  口を尖《とが》らせてぶつくさ言いながらドアを開け、ルフィは暗くてせまい部屋に滑りこんだ。  目が暗さになれるまでは、耳に頼るしかなかった。  乱暴に歩き回る足音は壁の向こうから……あの黒衣の二人組だ。  ベッドの辺りに人の気配がする。  クルクスを構え、ルフィは小声で言った。 「ワイリー・マイス、いるんでしょ?」 「もう来ないかと思ったぜ、護民官……」 �針金ネズミ�の心底ホッとしているような声。  なんだか妙に嬉《うれ》しくて、思わず微笑《ほほえ》んでしまう。  ぶん殴るのをやめにしたルフィは、ヒルダの最後や�赤毛のハッグ�が狙《ねら》っていることを手短に話した。ニコラの件は、取り引きの場が二日後のヘルドアになったとだけ告げる。 「ハッグにやられてたら、どうしようかと思ったわ」 「お前さんこそ、エンリコに何もされてねえだろうな……」  暗がりから伸びてきた手にそっと頬をなでられ、ドキリとする。 「なにするの」  と、鳩尾《みぞおち》を突かれ、ベッドに倒れて悶絶《もんぜつ》するワイリー。 「泥がついてたんだって! ったく、あんたほんとに俺の味方か?」 「な、なによ自分こそ、裏切って逃げたくせに!」 「ちがうって。あいつらに先回りされるのが嫌だったんだ。ああすりゃ、お前さんは城に泊まらず馬を飛ばしてくるだろ?」 「うっ……」  たしかにその通りだ。返す言葉がない。  街道でもずっと一人だったし、尾行もなかった。ワイリーは、敵の監視をふりきってルストへ急ごうというのだろう。  ルフィは、渋々うなずいた。 「船は手配してあるわ。でも、ニコラを助けると約束したし、それに……」  目が暗さに慣れてくる。ベッドに座った�針金ネズミ�に近づいて、じっと彼の目をのぞきこんだ。ここまでの道中、ずっと考えていたことを話さないといけない。 「あたしはね、何故あいつらが�針金ネズミ�を狙うのか徹底的に調べることにしたの。わかるまでは、ルストへは戻らないつもりよ」 「それで平気なのか?」とワイリー。  むろん重大な違反行為だ。すでに当初の予定から二日も遅れている。  でも……と、ルフィは思った。  プリニウス長官がこの任務にあたしを選んだのは、「女の子」だからではなく、別の理由があったのではないか? これが初めから、ただの護送任務ではなかったとしたら? もし、あの金額が偶然の一致でないのなら——ロマヌアのために、真実を知る必要がある。  全ては、ワイリーの返事にかかっていた。 「身代金は、ロマヌアの金塊で二十五万七千五百コレクタ——どこにあるかは�針金ネズミ�に聞けって」 「そう来たか。しつこい奴《やつ》らだ」 「知ってるのね? 今度こそ話してもらうわよ、ワイリー・マイス。あたしにも聞く権利があるでしょ?鬼ヘイの娘なのよ……」  小さくうなずくと、ワイリーは立ち上がった。 「まずは金塊を取りに行く。話はそれからだ」 「場所を教えて。あなたに手伝ってもらうわけにはいかないの」  これが護民官としての仕事なら、護送中の泥棒を同行させてはならない。  すっとワイリーの声が低くなった。 「いいか、ルフィ……俺は、テオを殺されて頭にきてる。あいつらとは、ここで方《かた》をつけちまいたい気分なんだ。頼むから手伝わせてくれ」 「でも、これ以上、規則違反をするわけには……」  ルフィは迷った。  いっそ、うなずいてしまいたかった。  完全に信用したわけではないけれど(逃げちゃうかもしれないわよ!)�針金ネズミ�は頼りになる相棒だ。いい加減でインチキ臭い男だが、妙に誠実なところもあって憎めない(でも、だらしなくてスケベだわ!)。  まったくもう、こいつが泥棒じゃなきゃよかったのよ(矛盾してるわよ、ルフィ!)。  頭の中で法律書をめくってはみたが、やはり答えは一つしかなかった。 「わかったわ。あんまり気は進まないけど、こうしましょ」 「あん?」  ルフィは背伸びをして言った。 「ルストの盗賊ワイリー・マイス、あなたを、ベルフィード・クレニスス・ヘイズォト護民官の護民官助手に任命します」 「なんだと! 俺を? この�針金ネズミ�を護民官助手に? 気は確かか?」  あ然とするワイリーに、うなずいてみせる。  唯一の合法的な手段だった。緊急時には、護民官は誰でも手続き無しに助手に任命できる。  ただし、本人の同意があればだが……。 「同意しますか?」とルフィ。  う〜んとワイリーは唸《うな》った。今度は彼が迷う番だ。  泥棒としての己のプライドと戦い、護民官の手下に成り下がるリスクを計算してるのね……と、勝手に想像してルフィが見つめていると、ワイリーは意外にあっさりとうなずいた。 「まあいっか」 「えっ、本当にいいの?」 「けりをつける。そう決めたんだ」 「ふうん。では略式だけど、『法の神に誓って、正義と秩序をもってロマヌアの民を守り、王と議会に忠誠を尽くすよう努力します』……はい、くり返して」 「ああ、なんでも好きにしろ」  ふてくされたように宣誓するワイリー。  ルフィは微笑んだ。 「これであなたも正義の味方よ」 「いや、この先、俺たちはロマヌアを裏切ることになるかもしれん」 「ロマヌアを?! どういうこ……」  思わず大声を出したルフィの口を、ワイリーが塞《ふさ》いだ。静かに! と、指先を唇に当てる。  ルフィがうなずくと、彼はそっと手を離した。  壁の向こうで、さっきの連中が怒鳴っていた。「待ち伏せだ!」とか「やれ!」と言う声が聞こえたかと思うと、別の誰かが、宿の外にも響くような悲鳴を上げる。  乱暴にドアの閉まる音がして、足音が遠ざかっていった。  もう一度、弱々しい呻《うめ》き声。それっきり、何の音もしなくなった。 「ハッグだ! 野郎どうやって……」  窓を開けたワイリーが、外へ出るなり隣の窓枠へと飛び移る。 「待ってよ、あたしも……!」  ルフィも窓から身を乗り出した。なりたての護民官助手の手を借り、窓枠を伝っていく。  中をのぞいた彼女は、すぐに目を背けた。  ランプが灯った右奥の部屋は血だらけだった。飛び散った血で壁も床もひどく汚れている。  ベッドにうつ伏せに倒れて動かない�赤毛のハッグ�は、髪の毛だけでなく、身体中を赤く染めていた。背中の肩胛骨《けんこうこつ》の下辺りに、短剣が突き立てられたままになっている。 「仲間割れ……?」 「いや、ハッグは俺を待ち伏せしてたんだ」  部屋の中で立ちつくしたまま、ワイリーが言った。  山賊が待ち伏せしていたところへ、あの黒衣の二人が来て、鉢合わせしたのだろう。 「くそっ。ここも知られてんのか!」  ワイリーは壁にナイフで打ちつけてあった紙をはがし、窓の外にいるルフィに差し出した。  殴り書きで、「明日の昼過ぎ、金塊を用意して�トニの広場�で待て」と書かれている。 「なんで? あなたの手紙は誰にも見せてないのよ」 「だよな、あいつらに知られるはずはない」  わからない……窓の外と内とで、二人は強張《こわば》った顔を見合わせた。  路地で鋭い笛の音が響いたのはそのときだった。呼子の音は数が増え、次第に近づいてくる。 「な、なに?」 「俺たち[#「俺たち」に傍点]とご同業だ。役人さ、悪名高いヘルドア騎士団だ……」  説明が終わらないうちに、ドアが勢いよく開いた。  飛び退《の》いて短剣を抜いたワイリーが、だらりと手を下げる。  顔を出したのは�灰色猫�だった。手を振って、ワイリーを窓へと追いやる。 「逃げるんだよ! 裏にボートがあるから、早く! あいつら、自分で騎士団を呼びつけたんだ。もうじき乗り込んでくるよ!」  ただハッグを殺したのではなく、役人を差し向け、隠れているワイリーをいぶり出すのに利用したのだ。 「これも�針金ネズミ�の仕業ってわけか」  ヘルドアの治安を守る(と称している)騎士団は、賄賂《わいろ》でどうにでもなる——そのぐらいはルフィでも知っていた。 「すまねえな、恩に着るぜ�灰色猫�……」  ワイリーが窓から外に出る。  窓枠につかまったまま、ルフィもペコリと頭を下げた。 �灰色猫�は、気にするなというように笑みを浮かべる。 「いいから行って! 朝までに方をつけて寝床を用意しとく。お風呂《ふろ》にも案内するよ、護民官」 「ルフィって呼んで」  そう答えたとき、ほんの少しだけこの街が好きになった。    ㈿ 「……じゃ、奴らから金塊だけを盗んだのね?」  小さくささやいたつもりが、長いトンネルに、わああんと声が反響していく。  ルフィは慌てて口を押さえた。 「二十五万七千五百コレクタ、馬車ごとかすめとった。世間に知れてりゃ、ロマヌアの悪魔に、ますます箔《はく》がついたろうな」  慣れているせいか、ワイリーの声は、あまり響かなかった。  今まで地下牢《ちかろう》が最悪だと思っていたルフィだが、その三倍はひどいところがあると知った。  下水道のほうが、ネズミの数が三倍は多いのだ。それが気配でわかってしまう……クルクスの達人になるのも考え物だった。  でも、道を知っているワイリーの後をついて、アーチ型の下水を歩き続けるしかない。  鼻は悪臭でとっくにおかしくなっていたし、ブーツの底がぬるぬるして気味が悪かった。  ランタンの明かりは絞っていたから、足元しか見えない。  どこかで、ピシャッと汚水のはねる音がした。  ネズミが出やしないか——そればかりが気になったが、それでもルフィは、ワイリーの話に意識を集中しようと努力していた。 �針金ネズミ�が二年前のスース村での出来事を話しはじめたのは、地下を流れる下水道に二人がもぐりこんで、ずいぶんたってからのことだった。  虐殺と破壊、そして捕虜の連行……彼の話は妙に詳しく、昨日のことのように鮮明だった。  その場にいなかったルフィにも、どこからか重たい鎖の音が聞こえ、村を焼きつくした炎が目に浮かぶほど……。 「よく憶《おぼ》えてるのね」 「何度も夢に見てるからな」  ワイリーがつぶやいた。 「あっ……」  ルフィは、悪夢にうなされている彼の姿を思い出した。 「俺はまんまと金塊を盗んださ。連れていかれる連中を見捨ててな……まったく、女子供には手を出さないが聞いて呆《あき》れる」 「ワイリー・マイス、あなた……」  ルフィにはわかった。  彼は自分で自分が許せないのだ。それで苦しんでいる。ずっと、長いこと……。 「あなたが気に病むことじゃないわ。フロスはもう、相応以上の代償を払わされたのよ」  父の死んだ、あの討伐戦争が正義だったにしても、あまりに多くの血が流れた。それこそ、スース村の何倍もの。 「だから余計に許せねえんだ」  やり場のない怒りをぶつけるようにつぶやいて、ワイリーが立ち止まった。  瓦礫《がれき》が散らばっていて、側道の壁には人が充分に通れる穴が開いている。  ルフィは最初、壁が崩れていると思ったのだが、そうではなかった。もとから横穴が開いていたところを、瓦礫を積んで塞いである。 「こっちだ」  先に穴をくぐったワイリーが彼女の手を取った。  チチッという鳴き声が聞こえ、思わず彼の手を握りしめる。  行く手の闇《やみ》に無数の星が、二つずつのセットで瞬いていた。  それがランタンの明かりを反射するネズミの目だとわかったとたん、足が硬直してルフィは立ち止まっていた。悲鳴はなんとかこらえ、大きく深呼吸する。  気がつくと、ワイリーがこちらをのぞきこんでいた。 「ルフィ、前から思ってたが、あんたもしかしてネズミが……?」 「ほ、本物のネズミはね。す、少しばかり、その……苦手なのよね」  ずっと暗い顔をしていたワイリーが、プッとふきだした。 「サビネズミは頭がいいし、理由もなく人を襲ったりはしない」 「じゃあ、なに? 理由があれば襲うってこと?」 「まあ、そういうことになるな」 「説得になってないわよ」  ルフィが、ぎこちない笑みを浮かべると、彼はため息まじりに声を上げた。 「やれやれ、護民官はネズミが嫌いなんだと。しばらく消えててくれると助かるんだがな」  彼の言葉が終わらないうちに、カサカサと足音が遠のいていく。 「ちょ、ちょっと、今のはいったい……?」 「俺も�針金ネズミ[#「ネズミ」に傍点]�だから、かな」  含み笑いをしたワイリーに手を引かれ、瓦礫の合間を抜ける。  ネズミは一匹もいなくなっていた。  黒塗りの木箱が、行き止まりの半ば埋もれた通路の中央に平然と置かれていた。 「よく見つからなかったものね」 「ネズミが守ってたのさ」  冗談とも本気ともつかない口調でワイリーが言った。さっきまでの笑顔は消え失せている。  埃《ほこり》をはらうと、鷲《わし》と獅子《しし》の紋章が現れた。ロマヌアの公用物と一目でわかる。 「俺が殺されない理由は、もうわかったろ?」  ルフィはうなずいた。  彼らは金塊の隠し場所を探るために、�針金ネズミ�を逃がそうとしたのだ。 「牢獄にいた俺を、護民官まで使って引きずり出した……てっきり口封じと思いこんでたんだ。そこにあんたの推理だろ。なるほどと合点がいったのさ」 「口封じ?」 「ああ、俺は恐ろしい秘密を握ってるからな」  箱のふたに手をかけたワイリーは、一瞬ためらった後、相手の受けるショヅクを予想して、心配そうな顔で告げた。 「スース村を襲ったのは、ロマヌアなんだ」 「嘘《うそ》よ!」 「俺も最初は信じなかった。だがな、ルストのこそ泥がロマヌア政府の輸送計画をどこから仕入れたと思う?」  ルフィは息を飲んだ。まさか、父が�針金ネズミ�に情報を?  ワイリーはうなずいた。村を救え、ロマヌアの正義を守れと頼まれたわけじゃない、双方の利害が一致しただけ。そして、あのときの流暢《りゅうちょう》なロマヌア語での命令——指揮を執《と》っていた男の顔は、今でもはっきり思い出せた。明らかにフロスの軍勢ではない。 「鬼ヘイの言ったとおり、あの事件は小国フロスに対し、ロマヌアが討伐戦争を起こすよう仕向ける陰謀だった」 「ロマヌアが……そんな!」  身体中の力が抜けて、ひざまずきかけたルフィをワイリーが抱きかかえた。  敵は聞くだに強大な組織だった。証拠もなく真実を話せないままに父は殺されたのだ。フロス討伐が有名無実なものになれば、大変なことになる。 「あの戦争も、父の戦死も、そいつらが……」 「すまん」 「どうしてすぐに訴え出なかったのよ! バカネズミ!」 「すまん……」  うつむいたワイリーの胸を散々|叩《たた》いてから、ルフィは彼をなじったことを後悔した。  あたしは馬鹿だ……。泥棒の�針金ネズミ�が、何をどこに訴えるの? 証拠の金塊をここまで運んだり、敵の追跡から逃れるので精一杯だったはず……。  彼女を抱きしめたまま、ワイリーは無理して明るい声で言った。 「さて、どうするね、護民官? あんたの信じるロマヌアも汚いことや小狡《こずる》いことをやってた。国を盗むなんざ大した悪党だな」  たしかに、犯人はロマヌアの有力者だ。何者か突き止めなくてはならない(プリニウス長官は初めからそのつもりで、あたしを?)。だが、それはルストに戻ってからのことだ。  まずは、ここで�針金ネズミ�の偽者と戦うしかない。  事件の黒幕に近づくため、ニコラを取り戻すため……クルクス・マヌアールスにかけて! 「ま、あんたが逃げるってんなら、このままルストへ行ったっていいんだぜ……」  ワイリーが、ペラペラと話し続けている。  微笑《ほほえ》みをたたえて、ルフィは、すっと顔を上げた。背伸びをする。  息がかかるくらいに近づくと、�針金ネズミ�が柄にもなくドキリとしたのがわかった。 「ありがと、ワイリー。元気づけてくれなくても、もう大丈夫よ。あたしが信じてるものは、ひとつだけですからね」 「ひとつ?」 「正義よ。ロマヌアにも正義を信じる人がいるってこと。少なくともここに、正義の味方が二人いるわ」 「おいおい、俺も勘定に入ってんのかよ」 「今は護民官助手でしょ」  しかたねえな……ワイリーが、そんな顔つきでホッとしたように笑う。  するりと彼の腕から抜け出したルフィは、いつもの口調で言った。 「身代金を引き渡すときに、あなたの偽者を捕まえる——それしかないわね」 「まあな。ただ、一つだけ問題がある」  ワイリーは、そう言って黒い箱のふたを開いた。  蝶番《ちょうつがい》の軋《きし》む音が妙に軽い。  ルフィがのぞきこむと、中には金塊がぎっしりと詰まって——は、いなかった。  紋章や日付の刻まれた千コレクタの金の板が一枚あるだけだ。 「金塊は? 全然ないじゃない!?」 「ああ、みんな使っちまった」 「ええっ!」 「さらわれたスース村の女子供を探して、一人残らず買い戻した」  ワイリーは、こともなげに言い放った。彼は、もう二度と主義を曲げないと誓ったのだ。  本来ならロマヌアの国庫に返されるべきものをと思いつつ、ルフィも怒るに怒れなかった。  ただ、明日の相手は、そんな言いわけを信じてくれそうにない。 「どうするの! ニコラにもしものことがあったら……」 「大丈夫。あんたが時間を稼いでくれれば、やつらが金を確かめる前に俺が奥の手を使う」 「なによそれ? 広場に罠《わな》をしかけたりするんじゃないでしょうね」  根拠や説得力のない言葉にルフィが顔をしかめると、彼は自信たっぷりに笑って言った。 「明日になればわかる」 [#改ページ]  第六章 錆色《さびいろ》の血族    ㈵  ルストの赤い壁が、中庭に短い影を落としていた。一日のうちで最も暑い時間。  庭の木陰で涼んでいたマリオルトは、ふと傍らの植え木に目をやった。  刈り込まれたばかりの樹から突きだしていた白い花が、熱気に色あせ、しおれかけている。  役宅の主の姿はなかった。  デモクスの声がした。 「プリニウス長官はまだなのか?!」  いらいらとして、落ち着きのない声だ。警備の役人を怒鳴り散らし、書類や書物を手にした彼が、足早に中庭に入ってくる。�耳�の補佐官は、中庭に咲き乱れた夏の花々に目もくれず、真《ま》っ直《す》ぐに上司の前に立った。 「マリオルト様、すでにお耳に届いているとは思いますが……」 「ベルフィード・ヘイズォト護民官がヘルドアに着いたそうだな」 「問題はそのあとです!」 「商館からの報告では、船を待たせているとか……」  そっぽを向いたマリオルトは、水仙に似た細長い花弁の白い花を見つめたままつぶやいた。  屈強な剣士の指が、ぎこちない動きでそっと花に触れる。  花は根もとからとれて、ぽとりと落ちた。  と、白い花は地につく前に、熱い茶で満たされた湯飲みに受け止められていた。  ハッと息を飲むマリオルト。 「先生!」  いつの間に忍び寄っていたのか、プリニウス翁が腰を伸ばす。 「名はクレニッス——この白い花は、毒にも薬にもなる」 「それは存じませんでした。して、効能は?」 「虫下しだよ。腹にもぐりこんだ悪い虫は、逃さず叩《たた》きのめす」  そう答えると、老人は涼やかな香りのする花の浮いた茶を飲み干した。 「長官! 浴場には、ずいぶんと前に人をやったはずですよ。今までどこにいたのです?」  デモクスが声を震わせて怒鳴った。自分の上司のマリオルトですら、時間を守って訪《たず》ねてきたというのにと、咎《とが》めるような口調だ。 「書庫におった。うるさい奴《やつ》だな、少々の遅れで目くじらを立ておって」  老人が顔をしかめると、一瞬だけ彼は言葉に詰まったが、すぐに書類をかざして報告した。  ヘルドアの商館に現れたルフィは、�針金ネズミ�を連行していないばかりか、�灰色猫の館�なる宿への道を聞いた後、行方をくらませたという。 「重大な違反行為もしくは、任務失敗の可能性があります」 「�灰色猫の館�というのは?」とマリオルト。 「いわゆる盗入宿の類《たぐい》と思われます。ヘルドアでは珍しくありませんので」 「�針金ネズミ�は魅力的な青年らしい。ルフィが、たぶらかされましたかな?」 「それはそれで面白《おもしろ》いな」  マリオルトの言葉に、プリニウスが頬《ほお》を緩めた。  咳払《せきばら》いをして、デモクスが声を上げる。 「ヘルドアなら目と鼻の先です、手を打ちましょう。あそこの騎士どもに商館から圧力をかけ、�針金ネズミ�とベルフィード護民官を確保させます。いや、いっそ我々が乗り込んで……」  彼の提案に、プリニウスとマリオルトはさり気なく顔を見合わせた。 「�耳�が、そこまで積極的に動くとは初耳だな」 「それは先生の誤解です。あくまで我々は聞くだけですから」  互いの思惑を探り合って、視線が絡まる。  二人は、ほぼ同時に「その必要はない」とデモクスに告げた。 「なぜです?! �針金ネズミ�は陰謀の渦中にいた重要な証人なのでしょう! 途中で逃亡されてはまずい」  しかも小娘の護民官は誘惑されて寝返った……そう言いたげな目をするデモクス。 「確かに、逃げられるくらいなら消したほうがいい。だが、我々が動くのはまずい」  慎重なマリオルトが、副官をたしなめるように言った。 「お前さんたちが、ルフィを信用できないのはわかる。けどな、あの娘が助けを求めて来ないなら、その必要はないってこった。�耳�とちがって、自分のことは自分でけりをつける娘さ」  プリニウスは、議論は終わりとばかりに言い切った。    ㈼ 「う〜ん、やっぱりお風呂《ふろ》ってのは、こうでなくちゃね……」  すらっとした手足を存分に伸ばして、ルフィはつぶやいた。 �灰色猫�の案内してくれたロマヌア式の浴場は、かなり本格的だった。  広々とした、ぬるめの第三浴槽——リラックスして考え事をするなら、これに限る。  約束の昼までには、まだしばらくの間があった。たっぷりのお湯にゆったりと浸《つ》かって、つかの間の幸せをかみしめる。大仕事の前に、身も心もすっきりさせておきたかった。  今回ばかりは、入浴中に邪魔される心配はない。というのも、朝起きてから�針金ネズミ�とは別行動をとっているからだ。  奥の手には、ちょいとした準備がいるんだ——そう言って、彼は夜明け前に宿を出ていった。  逃げてしまうのでは……そんな不安がないといえば嘘《うそ》になるが、自分の選んだ護民官助手だ。  ルフィは彼を信じて見送った。  たちこめる湯気の中で、ワイリーとの計画を確認する。  風呂を出たら�トニの広場�へ空箱[#「空箱」に傍点]を運び、連中と取り引きするのがルフィの役目だ。  箱と引き替えにニコラを見せるよう要求し、無事を確認する。問題はその後だ。  ワイリーが言うには、「タイミングを見計らって神殿の鐘を鳴らす。そしたら、子爵のガキめがけて突っ走れ」とのことだった。肝心の奥の手とやらが何なのかは、教えてくれない。 「『ヒントは、あの地下|牢《ろう》の鍵《かぎ》』だなんて……んもう、よけいに気になることを!」  文句を言いながら、顎《あご》まで湯に浸かってプクプクやるルフィ。  集中しすぎて、そのまま沈んでいき、湯が両耳にじわりとしみこんで、ゾクッとする。 「よくまあ、ふやけちまわないもんだ」 �灰色猫�の声がした。  浴槽の縁に腰かけて、呆《あき》れたように見つめている。むろん彼女も、ロマヌアの公衆浴場でのマナーに従って素っ裸である。  ルフィは、プハッと湯から顔を上げた。 「考え事してただけです」 「ロマヌア人なのに加えて、さらに風呂好きってのは初めて見たよ」 「むむむ……」  自分で承知してはいても、面と向かって他人に指摘されると照れくさい。  けれど、この�灰色猫�にはルフィも頭が上がらなかった。  ワイリーと二人で空っぽの公用箱を持って宿に戻ったときは、すでに真夜中を過ぎていたが、彼女は夕飯を用意して待っていてくれたのだ。騎士団も舌先三寸で丸めこまれ、ハッグの死体を運んでいっただけらしい。  おかげでぐっすり眠れたし、こうして朝から風呂にも入れたのだ。  ファブリアーノ子爵もそうだったが、頭ごなしにうるさく言わない人にルフィは弱かった。  かえって、逆らえなくなってしまうのだ。  だから(他に理由なんてないわよ! 絶対に!)、こんなことも今まで聞けないでいた。 「あの、ワイリーとは長い付き合いなんですか?」 �灰色猫�は、へえというような顔つきで、面白そうにルフィを眺める。  そして、声をひそめて言った。 「あいつから、聞いてないんだ。あの宿屋はね、二年ほど前に�針金ネズミ�が大枚はたいて買ったんだ。スースの人を一時的にかくまうためにね。あたしはその最初の客ってわけ」 「じゃあ、あなたも、あのときの……」 「ええ、そうよ」  スース村の生き残りと知れれば、あいつらに殺されかねない。生きていくには、名前を変えたり、異国で新しい暮らしを始めるしかなかった。身よりのない彼女は、残ってあの宿を切り盛りする道を選んだのである。 「だから、�針金ネズミ�には感謝してる。それだけの関係……どう、安心した?」 「あ、安心って、な、なんのことですか!」 「べつに」 �灰色猫�は、くすくす笑いながら見ている。 「もう……」  照れ隠しに、ルフィはまた湯の中に沈んだ。  目を閉じて、彼女のくすくす笑いの意味を頭の隅に押しやり、心を落ち着ける。  あと一つだけ、どうにも腑《ふ》に落ちないことがあったからだ。  なぜ敵は、こちらの行く先を正確に察知できるのだろう——偽者の�針金ネズミ�は、護送ルートを知っていたとしか思えない。そうなると、黒幕はかなり絞られてくるはずだ。  あたしの旅程を知っているのは……まず、プリニウス長官でしょ、それにマスリックとヘルドアの商館で�耳�に報告したし、あとは……。  マスリックの司法官だ! 表街道をそれ、ライモードへ向かうことを話した。その後すぐ、山賊が襲ってきたではないか。しかも、伝書バトで居場所を知らせてしまった。  あのたくさんの伝書バト……もし彼が、ヒルダと連絡をとっていたら?! 「でも、それはちょっと無理があるわよね……」と、つぶやく。  ロマヌアにいる犯人は、スース村の事件を表沙汰《おもてざた》にされたくないはずだ。わざわざ、マスリック人を仲間にするだろうか? それに、ワイリーが大胆な手で追跡をふり切ったときだって、偽者の�針金ネズミ�の部下が、当然のように�灰色猫の館�に現れた。  あのときは、絶対に誰にも話してない。子爵にさえ手紙を見せなかったのだ。  ヘルドアに着くまでの間も、ずっと一人で馬を走らせて……。 「あっ!」  大きな声が、わぁんと風呂場に響いた。 �灰色猫�が驚いて目を丸くする。  他の客もこちらを見ていたが、構わずにルフィは浴槽を飛び出した。  水を浴びて身体を冷やすのももどかしく、彼女は走り出していた。ロマヌアの公衆浴場でのマナーに反するが、いても立ってもいられなかったのだ。  脱衣所で湯女《ゆな》からタオルをもらっているところへ、�灰色猫�が追いつく。 「どうしたのさ?」 「見つけたの! わかったのよ!」  あのとき、行く先を聞いていたものがいた。旅の間、敵はいつでも二人の行き先を知ることができたのだ。もしそんな魔法があれば[#「そんな魔法があれば」に傍点]——という仮説だが、これなら全てに説明がつく。ヒルダが死ぬ前にしたことには、意味があったのだ。  気づいたことを興奮気味にまくしたてていた(聞かされる�灰色猫�は当惑気味だ)ルフィは、その途中で妙なことに気づいた。 「でも待って、どうしてハッグまで、あたしたちの行き先を……?」  どこか、見落としたところがあったろうか?  着替えながら、�赤毛のハッグ�の言動を反芻《はんすう》する。  急いでいることを察した�灰色猫�が、黙ってしまったルフィの髪を梳《す》いてくれていた。 「あたしには、なんのことやらさっぱりだよ。馬に魔法がどうしたって……ねえ、ルフィ?」  ルフィは、ハッと息を飲んだ。 「そう、ルフィよ! あのときハッグは、あたしをルフィって呼んだわ」  ライモードの処刑場で会ったとき、護民官としか名乗っていないのに!  深呼吸をしてから、ルフィは落ち着いて�灰色猫�に昨日の晩のことをたずねた。 「騎士団が来たとき、あなたも一緒に部屋に行きました?」 「いいや。口出しすると怪しまれるからね。勝手に入らせて、死体を運ばせたよ」 「ハッグは……赤毛の男は、本当に死んでた?」 「う〜ん、どうかな」  背後で髪をまとめてくれている�灰色猫�の声に、自信がなくなった。 「敷布がかけてあったし、死体をはっきり見たわけじゃないからね」 「もしかして、あの男が……!?」  ワイリーに伝えないと!  彼女がそう思ったとき、正午を告げる鐘の音がした。 �トニの広場�、ミトゥン神殿の鐘の音だ。  約束の時間が近づいていた。    ㈽ 「こいつが合図だ。いつもとちがう時刻に、この音がする。いいな?」  闇《やみ》の中で、ワイリーがつぶやいた。  鐘の音は花の女神ミトゥンの神殿を震わせ、その震動は土台の石材から、ヘルドア中の下水路へと伝わっていく。人にはとても感じ取れないが、彼らには充分すぎる合図だ。 (ルストの盟主よ) (要請された協力内容について、拘束時間と動員数を正確に計算した) (結果、約五年分の契約に相当する。我らの主観では、かなりの年月だ。異存はないか?) 「くどいな。前借りにしといてくれって言ったろ」 (肯定……。指示の通りに) 「ああ、頼む」  短く言いおいて石の梯子《はしご》を登る。そろそろ、取り引きが始まる頃だった。  神殿には朝のうちに忍びこんで、鐘に針金をしかけてきてある。目立たないように壁面にそって垂らした鋼線は、神殿前の花壇にもぐりこませてあった。  あとは�トニの広場�に戻って、ルフィの交渉を見守り、処刑の鐘を鳴らすだけだ。  簡単きわまりない、あっけない幕切れだ。  今まで俺《おれ》は、どうやって逃げるかばかり考えていた。たとえ悪夢に悩まされても、そのほうが楽だと思っていたのだ。それがどうだ? 街でなら�針金ネズミ�も戦えるってことを、あいつらに思い知らせてやる——だなんて、どうかしてる。  あの、正義感の塊みたいな小娘のせいだ。  落ちこむことはあっても、ルフィは決してあきらめないし、どんな巨大な敵にもバカ正直に立ち向かっていく。鬼ヘイより始末に負えない護民官なのだ。  これでしばらく(五年だったか?)ヘルドアでの仕事がやりにくくなるが、しかたない。 「危なっかしくて見てらんねえんだから……助手にとっちゃ最悪の護民官だな」  とかなんとかつぶやきながら、鉄格子を上げて袋小路へとはい出す。 �トニの広場�までは、川にそって屋台や露天商が並んだ市場通りを突っ切ればすぐだった。  荷馬車の行き交う広い道を歩きながら、ふっと笑みを浮かべる。  ワイリーは照れくさそうにつぶやいた。 「へっ、この俺が正義の味方とはね……」 「——虫が良すぎるよなあ、クソネズミ」  聞き覚えのある声がした。二度と会うはずのない男の声だ。 「なっ?!」  驚きのあまり、身体が硬直した瞬間。  真紅の矢が、左のブーツを貫いていた。  露店をのぞいていた客が悲鳴を上げ、篭《かご》を頭にのせた女たちが荷物を放り出して左右に散る。  そいつは、通りの真ん中でいきなりワイリーめがけて矢を放ったのだ。 「なんで、お前が? 死んだはずじゃ……!」  叫びながら片足を引きずってよけるが、間に合わない。 �赤毛のハッグ�は、とっくに次の矢を放っていた。  左胸を狙《ねら》った矢が、肩口に突き刺さった。  食いこんだ矢尻《やじり》が筋肉を切り裂ぎ、骨にぶち当たって止まる。  ぐはっと息を吐いて右へ転がったワイリーは、油売りの大きな瓶に隠れた。店の主は、とっくに逃げ出している。 「驚いたか、ワイリー・マイス?」  ハッグの近づいてくる足音。  楽しくてたまらないという笑い声。 「てめえは勘が鋭いからな、こうでもしないと殺せないと思ってよ」  あれは死んだふりだった。黒衣の男たちは奴の手下なのだ。騎士団も初めから買収されていたのだろう。だが、肝心なのはそこじゃない——つまり、�赤毛のハッグ�こそが!?  彼は瓶の陰から、大声で叫んだ。 「お前が、偽者の�針金ネズミ�だったんだな!」 「わかったところで、お芝居は終わりだ。本物の�針金ネズミ�さんよ」  捕まった山賊を射殺したのも、鎖で縛られていたのも、ルフィにした伝言とやらも……全てが嘘《うそ》だった。いや、そもそもこいつは、マスリック人の山賊などではないのだ。  恐らくは、スース村を襲った傭兵《ようへい》の一人……もう少しまともな性格だったら、組んで仕事をしたときに金塊のことを話してしまったかもしれない。  いくら探しても、偽者が見つからなかったわけがようやくわかった。 「くそっ、時間がない……」  ルフィの相手は、こいつの手下がするのだろうか? 急がないとまずい……!  顎が壊れるくらい歯を食いしばり、右手一本で、ブーツから突きだした矢を折る。  履きものの中には、じわじわと血がたまり始めていた。  痛みをこらえ、しゃがんだままジリジリと死角に回りこむ。  ハッグの足音は、彼がさっきまでいた瓶へと向かっていた。そのために大声を出したのだ。 「まぬけ野郎が!」  よろよろと立ち上がり、背中を向けている赤毛めがけて短剣で斬《き》りつける。  矢をつがえたまま、ハッグがふり向いた。  ヒュンと矢羽が頬《ほお》をかすめる間に、短剣の刃先が相手の指に食いこんでいた。  落ちた弓を思い切り蹴飛《けと》ばす。  半弓はハッグの股《また》をくぐり、乾いた音をたてて石畳を滑っていった。 「こ、このクソネズミが!」 「そのネズミ一匹殺すのに、ご苦労なこったな!」  ハッグは血まみれの手を腰に伸ばすが、こちらの方が早い。 「お前は真の標的ではない、ワイリーマイス」  短剣を突きだす寸前、背後から誰かが言った。またしても、聞き覚えのある声だ。  それだけではなかった。大勢の鎖鎧《くさりよろい》の音が、さざ波のように響く。  まずいっ! 左足を激痛が襲うのも構わず、ワイリーは猛スピードで赤毛の脇《わき》をすり抜けた。  必死に走って間合いを取り、さっき蹴飛ばした弓を拾ってから、ようやくふり返る。  切られた指を押さえたハッグは、援軍とおぼしき一団に詰め寄っていた。 「マスリックのキザ野郎が! 気どってる場合か! こいつをぶっ殺すのも仕事のうちだろ!」 「それは貴方《あなた》の任務だ。私が請け負ったのは、偽者の�針金ネズミ�を暴れさせてロマヌアの名を貶《おとし》め、調査に派遣された護民官を斬殺すること[#「護民官を斬殺すること」に傍点]。あとは……」  指を鳴らす音が響いたとたん、騎士団が一斉に抜刀した。  無数の白刃がきらめいたかと思うと、吸い込まれるように全てがハッグの身体に突き刺さる。 「き、汚ねえ……俺まで使い捨て……かよ!」  剣が引き抜かれると、赤毛は、ぐちゃりと血だまりの中にくずおれた。 「知りすぎた男の口封じも契約の内だ」  完全武装の騎士団の合間から、ハッグが「マスリックのキザ野郎」と称した人物が現れる。 「なんてこった……」  ワイリーには、呻《うめ》くことしかできなかった。  自分もルフィも、とっくの昔に敵の罠《わな》にかかっていたのだ……。  そいつは、おどけた素振りでワイリーにロマヌア式のお辞儀をすると、騎士団に命じた。 「なにか企《たくら》んでいると厄介だ、本物も殺しておこう。半数は私に続け……ルフィを始末する」  隊列を整えたヘルドアの騎士団が、ハッグの血にまみれた剣先をこちらに向けた。    ㈿  重みで軋《きし》む荷車を芦毛《あしげ》の馬に牽《ひ》かせてヘル川を渡ったルフィは、�トニの広場�に入った。  橋から真《ま》っ直《す》ぐ来たところで馬をとめ、広場を油断なく見回す。  口は、ぎゅっと一文字に閉じたままだった。�検知棒�で調べた結果は、風呂《ふろ》での予想通りだったから……用心に越したことはない。  他のヘルドアの広場には二つ三つの神殿が同居しているが、ここは大きな、ミトゥンの神殿が一つあるきりだ。神殿は広場をはさんで正面にあった。  花の女神の神殿らしく、入口の前は一面が花壇になっている。回りには供物用の花を売る店も立ち並び、華やかな雰囲気があった。  青を基調にしたタイルで飾られた神殿は、荘厳というよりは親しみやすい柔らかな意匠で、めしべをかたどった尖塔《せんとう》も、どことなく丸みを帯びている。  塔は先端まで吹き抜けで、頂部にはクレニッスの花をかたどった白色の鐘が吊《つる》されていた。  広場は通行人ばかりでなく、供物の花を手にした参拝者でにぎわっている。  ルストと同じだった。ミトゥンは花を司《つかさど》る女神でしかないが、仲睦《なかむつ》まじいと言われる夫神のラノートが死を司る神なので、彼の妻にとりなしを願う参拝者は多い。  ルフィは典型的なロマヌア人だから、神々に敬意は払うが、頼るのはどうにも困ったときだけ……そう思っている。だが、今は幸運を祈りたい気分だった。プリニウス長官に言わせると、ミトゥンは彼女の守り神らしいのだ。  そういえば女神のご加護かしら? 今日はネズミを見かけないわ……広場を眺めて思う。  足元を走り抜けられてもしたら恐怖で身がすくんで、はったりをかますどころではなくなるところだった。荷台にある黒塗りの箱の中身は、ただの石材なのだ。  ワイリーはどこに隠れてるんだろう?  知った顔の男が広場に現れたのは、そのときだった。  遠目にそれとわかる黒髪のハンサム——マスリックの司法官だ。 「そんな……!」  荷馬車の陰にしゃがみこんだルフィは、つぶやいていた。  どうしてヘルドアにいるの?! まさか、最初の推理のほうが当たりってこと……?  せめてもの幸運は、こちらが先に気づいたということだ。  手勢を率いて川下から馬を走らせてきた司法官は、ルフィがやったのと同じく、ぐるりと広場を見渡した。馬上から部下に指示を出していた早口のマスリック語には「ルフィを探せ」という単語があったような気がする。どうやら見つかってはいない。  もう一度、彼は広場を見回すと、神殿の脇にある小道へと去っていった。  代わりに、黒衣の二人が神殿から現れる。こちらはすぐに荷馬車に気づき、花壇を突っ切ってきた。司法官との連携はないらしい。 「来たわね……」  ルフィは荷馬車から芦毛を外し、背に鞍《くら》をのせた。 「あなたたちの、どっちが�針金ネズミ�なの?」  馬具をとり付けながら、二人に声をかける。  山賊たちは顔を見合わせてへらへらと笑った。 「お頭はあとから来る。金塊はどこだ?」 「ロマヌアの紋章くらいわかるでしょ」  荷台を顎《あご》で指しつつ、ベルトの背中側にはさんだクルクス・マヌアールスに手をやる。  彼女の踵《かかと》が、ゆっくりと持ち上がった。  山賊の一人が黒塗りの箱を持ち上げようとするが、箱はびくとも動かなかった。 「中を確かめる。鍵《かぎ》をはずせ」 「ニコラはどこなの?」 「子供は城の近くに無事でいる。金塊を渡せば、返される手はずだ」 「信用できるわけないでしょ! 鍵はニコラの無事を確認してからよ!」  手下たちが怯《ひる》んだ隙《すき》に、さりげなく尖塔《せんとう》の白い鐘に目をやる。  いまだにワイリーの姿は見あたらなかった。  神殿の中にいるのだろうか……?  白刃がうなりを上げ、背中の皮一枚をかすめた。  暗い色の布地がスパッと裂けて、血が滲《にじ》む。  それでも�針金ネズミ�は、生き延びていた。  とばっちりを恐れ、速度を上げて通り過ぎた馬車に飛びついたのだ。  追いすがって馬車の縁につかまった騎士の手を、右脚で蹴り落とす。  あっと叫んだときには、そいつの兜《かぶと》が大きな車輪の隙間に巻きこまれていた。首がねじれ、ぐにゃりとなった死体がズルズルと引きずられていく。  車輪に食いこんだ兜のせいで、馬車もすぐに止まってしまった。  また自力で走るしかない。  こうして無茶をするたび、追ってくる騎士は一人また一人と減っていくが、ワイリーの傷も増えていた。徐々に、体力を奪われていく。 「ルフィ、逃げろ……あいつは敵なんだ……」  ワイリーは、祈るようにつぶやいていた。  これは後始末ではない。あいつらの新しい計画なのだ。  やつらの本当の狙《ねら》いは、金塊でも�針金ネズミ�でもなかった。  護民官だ。ルフィを殺し、マスリックがなにか企んでるように見せかける。ロマヌアにこの国を攻める口実を与えるためだ——少々強引だが、マスリック人のあいつ[#「あいつ」に傍点]が手を貸しているなら、できないことじゃない。  スースの悪夢が蘇《よみがえ》り、テオの死に顔が浮かんでは消え、光を失ったルフィの灰色の瞳《ひとみ》がそれに重なる……焦燥感でどうにかなりそうだった。  もう二度とご免だ。またあんな思いをするぐらいなら、いっそ俺を殺してくれ……!  くそっ! そうじゃない! 走るんだ�針金ネズミ�! なんてことはねえ! ちょっと足が思うように動かなくて、目が霞《かす》んで、頭がふらふらするだけだろ! あいつ[#「あいつ」に傍点]がルフィに手を出す前に花壇の針金を……! お前が鐘を鳴らせば、まだ勝ち目はあるんだぞ!  皮肉なことに、今は逃げ切ることこそが、戦うことなのだ。  左肩に矢を突き立てたまま、ワイリーは走り続けた。半ば引きずっている左足は、ブーツの中で血が粘り、一足ごとにガボッと音をたてる。自分の血で滑って転びそうになるほどだった。  不思議と痛みは感じない。ただ、無性に身体がだるく、頭が働かない。だんだんと騎士たちをふり切るのが億劫《おっくう》になっていた。  行く手に神殿の尖塔が見えてくる。広場まで、あと一息だ。  頼む! 花壇まで、もってくれ!  ルフィのやつ、俺が逃げたと思ってるんだろうな……などと考えたのが失敗だった。  追いついた白刃が、右脚を切り裂く。  つんのめったワイリーは、石畳に叩《たた》きつけられていた。 「ガキが死んでもいいのか?」  立てた親指で首を掻《か》っ斬る仕草をして、山賊が言った。 「ニコラを連れてこなきゃ、交渉決裂よ」  いくらすごまれても、ルフィには譲る気は毛頭ない。見せようにも、金塊がないのだ。 「くそっ、相手は小娘だぜ、ぶち殺して……」 「待てよ、こいつは、あのクルクス使いだぞ」  などともめながら、山賊たちはしきりに川上の路地へと目をやる。  あたしと同じだわ。こいつらは誰かを待ってる。もしかして、見せたくても、ヘルドアにはニコラを連れてきてないんじゃ……? だとしたら馬鹿みたいな取り引きだ。  彼らの視線を追ったルフィは、すっと目を細めた。  路地の奥から、一頭の馬が走ってくる。次第に大きくなる軽やかな蹄《ひづめ》の音……。  山賊がささやいた。 「お頭……じゃないぞ! どうなってんだ?」 「なんで、あいつがここに?」  馬上の人物は、すでにルフィに気づいていた。 「護民官!」 「ファブリアーノ子爵……!?」 「金塊を渡してはいけません! ニコラは無事です!」  意外な人物の登場に、ルフィは呆気《あっけ》にとられた。  馬から飛び降り、走りながらエンリコが剣を抜く。  彼は長く重い剣を苦もなく振り回していた。華奢《きゃしゃ》な体格からは信じられない動きでもって、信じられないという顔をしていた山賊二人を、あっさりと斬《き》り伏せてしまう。  相当な使い手だ。ルフィは、自分も見かけで人を判断していたことを思い知らされた。 「間に合って良かった……」  血のついた剣を後ろによけたエンリコが、無事を確かめるように片手で軽く抱きしめてくる。 「ルフィ、あなたにもしものことがあったらと……」 「ど、どうしてここが?」  エンリコは、にっこり笑って疑問に答えた。 「司法官ですよ。偽者の�針金ネズミ�を捕らえて、ニコラを保護したと聞き……」 「なんですって!?」  これは罠だ! 「子爵、聞いてください、その司法官こそが……」  話し出してすぐに、ルフィは妙なことに気づいた。  広場から参拝客や通行人の姿が消え、ヘルドアの騎士団が入ってきたのだ。  川上へと延びた路地から、鎖鎧の男たちが続々と現れ、隊列を組む。  彼らは全て、ファブリアーノ子爵のあとについてきたのだ。  神殿のほうから、ルフィ! と呼ぶ声がした。  司法官だった。マスリック王の親衛隊を何人か率いて、花壇の向こうに戻ってきている。 「逃げるんです! その男は危険だ! マスリックをロマヌアに売ろうとしている!」  喉元《のどもと》にヌルッとした感触。  人を斬ったばかりの剣が、ルフィの白い喉に押しつけられていた。 「動くな、護民官。動くと今すぐに死ぬことになる」  別人のような口調で、エンリコが言った。さらに、司法官たちに武器を捨てるように告げる。  広場の反対側で、剣や槍《やり》を投げ捨てる音が響いた。  またヘマをした。プリニウス長官が、司法官に親書を送っていたことを完全に忘れていた——味方なのだ、彼は、マスリック側の内偵者だったのである! 「彼らを拘束しろ……」  エンリコが命じると、騎士団が神殿へとにじり寄っていく。  ルフィは叫んでいた。 「どうしてこんなことを!?」 「忠義心だけの父も、まがい物の城も大嫌いだった。ニコラという駒《こま》を得て、私はマスリックの王になる……手段は選ばんよ」  それが子供の頃からの夢なのだと、エンリコは誇らしげに語った。 「ニコラは一歩も城を出ていない。何も知らぬ執事をだますのに、ヒルダの力を借りたのだ。ロマヌア側の手先だが、良いパートナーだった。彼女の仇《かたき》は、たった今討ったがね」 「ハッグを殺したの?」 「ほう、奴《やつ》の正体を見抜いていたか」 「テオもあなたが……」 「本物の�針金ネズミ�に接触し、良い印象を持っていた。身近にいては計画にさわる」  そして、あたしも殺すつもりだ……ルフィにはわかった。  ロマヌアの黒幕はフロスでの成果に味をしめ、同じ手をマスリックに対しても仕掛けたその仕上げに二年前の失敗を、邪魔者の�針金ネズミ�を利用したのだ。ロマヌアの護民官をおびき寄せるために! 可哀想《かわいそう》なワイリー・マイス……。  許せない! ルフィ、あんたは馬鹿よ! こんな奴にチヤホヤされて浮かれてたなんて! 「エンリコ、頭がいいんだからわかるでしょ? あなたは戦争を起こそうとしてるのよ!」  背後の男が、鼻で笑う気配がした。 「今の王に、私を言い負かせる家臣はいない。あの莫大《ばくだい》な金塊と、ヘルドアをくれてやれば、ロマヌアの後押しで私はマスリックの王になれる……そういう密約だ」 「くっ!」  やっぱり戦争になってしまう。金塊はないのだから!  司法官たちが、ゆっくりと騎士団に包囲されていく。  クルクスさえ抜ければ……!  右手は手首をがっちりつかまれ、動かせそうになかった。  刃が喉に食いこんでくる。 「逃げて……ないわよね? ワイリー・マイス……信じてるわよ……」  どうすればいい?  相棒の姿を探したルフィの目が、大きく見開かれた。 「……ほう、私は本物の�針金ネズミ�を過小評価していたようだ」  エンリコが面白《おもしろ》そうにつぶやいた。  ルフィの灰色の瞳が涙でにじんだ。 「ワイリー!」  声を出そうとしても、唇が震えて言葉にならない。 「すまん、待たせたな……」  血まみれのボロ布のような�針金ネズミ�が答えた。  もうルフィの姿が見えないのか、彼はふらふらと弓を杖《つえ》に神殿へと向かっていく……。  どこか遠くから聞こえるルフィの声——ワイリーは、反射的に謝っていた。  広場の入口には、股間《こかん》に短剣を突き刺された最後の追っ手が、まだのたうち回っている。つんのめって倒れるふりをして、投げつけたものだ。  ここへ来るまでに、突き立った矢は、脇腹《わきばら》にもう一本増えていた。まだ生きているところを見ると、どうやら腎臓《じんぞう》は外れてくれたらしい。  首筋に剣を押しつけられたルフィを視界の隅にとらえた瞬間、残り少ない血が凍りつく。  ルフィを助けるには、彼女に背を向けて神殿へ走るしかなかった。もはや、弓を杖に足を引きずるのが精一杯だが、それでも、ハアハアと息をついて進んでいく。  いつの間にか、花の香りに包まれていた。花壇に踏みこんだことさえわからなかった。  靄《もや》が一段とひどくなり、どうにも視界がせまくなってくる。 「くそっ、針金はどこだ……」  これでは、とても間に合わない!  いや、まだだ! 「無礼を許してくれ、ミトゥン神……あんたの罰ならいくらでも受けてやる。だから旦那《ラノート》にゃ、もう少し待つように言ってくれ!」  力をふり絞って背を伸ばす。 �針金ネズミ�は顔を上げ、青い尖塔《せんとう》の天辺《てっぺん》にある白い鐘を見つめた。  司法官を押さえた騎士たちが、寄ってくるワイリーを指さし「殺すか?」という仕草をする。  ルフィの背後で、エンリコが首を横に振った。  広場の向こう側にいるワイリーは、背中を向けフラフラと花壇に入っていく。 「気にするな、死に損ないのネズミだ……」  エンリコは笑って言った。  クルクスを手にしたときのルフィの恐ろしさを知りながら、まだ殺さないでいるのは、王や議会を動かしやすくするため……ロマヌア市民の同情を煽《あお》るような殺し方をするためだろう。惨殺される護民官が女性なら[#「惨殺される護民官が女性なら」に傍点]、なおさらだった[#「なおさらだった」に傍点]。  そうなる前に舌を噛《か》んで死んでやる……!  悲壮な覚悟を決めながら、それでもルフィは相棒を信じていた。あのバカネズミが、自暴自棄になるはずがない。なにか策があるのだと……。  立ちつくしていたワイリーが、何やら叫んで神殿を見上げ、グッと呻《うめ》いて左肩に刺さった矢を引き抜いた。さらにそれを、杖にしていた弓につがえる。 「気が触れたか」とエンリコ。 「ちがうわよ!」  ルフィが怒鳴ったのと同時に、ワイリーは矢を放っていた。  真紅の筋が一直線に尖塔めがけてかけ登る。  ガツッ! と鈍い音。 「そ、そんな……!」  鐘の音は聞こえない。  がくんと鐘が傾《かし》いで……それだけだった。  わずかに外れた矢は、標的より小さい鐘を吊《つ》る金具に凄《すさ》まじい勢いで命中していたのだ。  なんて嫌味《いやみ》な矢なんだ! ハッグめ、最後の最後まで邪魔しやがって!  集中が途切れたワイリーは、弓を花壇について身体を支える。  しびれを切らした何人かの騎士が、エンリコの命令を無視して近づいてきていた。ミトゥン神の熱烈な信奉者か……こんなときにそんなことを思いついて苦笑する。  まだ矢はあるぞ�針金ネズミ�、もう一度だ!  無造作に脇腹の矢を引き抜く。あまりの痛みに目が覚めた。  しくじったら、ルフィは助からない。  矢をつがえて弓を引き絞る。左肩が悲鳴を上げた。  それでも、無理やりに呼吸を整える。  ワイリーは、狙《ねら》いを定めるなり思い切りよく矢を放った。  今度の矢は、狙い違《たが》わずクレニッスの花に当たって跳ね返っていた。  鐘が激しく揺れて、ウォォンというような低音と高音の混ざり合った音が鳴り響く。 「思い知れ、これが�針金ネズミ�の奥の手だ……」  ワイリーは、がっくりと力尽きて花の中に両膝《りょうひざ》をつく。  鐘の音とは別に、地鳴りのような音がざわざわと足元からわき起こっていた。  合図に答えて、彼らが動き出した証拠だ。  真っ先にかけつけた一匹が、彼の膝に前足をついて鼻をひくつかせる。  朦朧《もうろう》としながらも、�針金ネズミ�は、彼らに細かい指示を伝えた。  鐘が鳴って三つと数えない内に、�トニの広場�に通じる路地という路地から、錆色《さびいろ》の波がワッと押し寄せた。波同士がぶつかっても弾《はじ》けたりはしない。さっと混じり合い、より強い流れに変わる。  何万匹というサビネズミの大群——片手にのる子ネズミから、両手のひらに余る大物まで、ヘルドアに生息する全てのサビネズミによって、広場は瞬く間に埋めつくされた。  いつものように臆病《おくびょう》な野生動物の本能で動き回ってはいない。といって、狂乱して人々に食いつくわけでもない。錆色の流れには理性があった。ネズミたちは、正確にヘルドアの騎士団とファブリアーノ子爵を認識し、彼らだけに襲いかかったのだ。 (攻撃目標は二十一個体。攻撃は一個体につき最大で五千に抑えよ) (武装を解除し、致命的な攻撃を避けよ) (個体ベルフィードを捕捉《ほそく》した。移動する)  小さな声が、次々と発せられていた。  いちいち人語を発する必要はないが、ワイリーにそう指示されているのだ。  サビネズミは完全に人間に寄生している動物だ。人口に比例して彼らの数も増えていく。  大昔……恐らく世界最古の都市で、サビネズミの生息密度がある域に達したとき、最初の王族が生まれた。王といっても他のネズミと全く変わりはない。群の数が少ない内は……。  彼らは一匹ずつが利口になるのではなく、大きな群全体の脳を一つにして知性を得る——それが�錆色の血族�と呼ばれる集団だ。  人間と共に暮らして得た、あらゆる知識や記憶は群全体に蓄えられ、知能は発達していった。  数を適正に保ち、ヒトと共存するために。  今ではサビネズミは各地に勢力を広げ、多くの都市や城に住む�錆色の血族�たちは互いを認識し、常に情報を交換している。  ルストの盟主——ワイリー・マイスは、彼らの生態を知る唯一の人間だった。  騎士の指を噛み砕いて、武器を落とさせているネズミ。  顔に群がってパニックを引き起こそうとするネズミ。  足元から鎧《よろい》や服の内側にもぐりこむ……ネズミ!  ルフィは、ワイリーが地下牢《ちかろう》の鍵《かぎ》を開けた方法がようやくわかった。この赤茶色の小動物たちに、鍵を開けさせたのだ。  ただのネズミたちではない。  彼女を助けるために、真っ先にエンリコの手に食らいついたのだから。  右腕が自由になった瞬間、クルクスを抜いたルフィは、喉《のど》を押さえていた長剣をひねり、子爵を地面に叩《たた》きつける。たちまちネズミが群がり、彼は赤茶色の山と化した。  だが、ルフィが頑張れたのは、そこまでだ。  足がすくみ、悲鳴を上げて、ペタンと石畳にへたりこんでしまう。 「こ、これが奥の手なの……!?」  彼女は呆《ほう》けたようにつぶやいた。ネズミは苦手なのに!  ルフィには襲いかかってこないが、それでも彼女はパニック寸前だった。  落ち着いて、ルフィ……こいつらは味方なのよ! 目をつぶって深呼吸をくり返す。  それでも、毛皮が足に触れるたびに、悲鳴とともに飛び上がっていた。 「戻ってこい、護民官! �針金ネズミ�を助けたくないのか!」  遠くの方で、エンリコの声がする。  ハッと顔を上げると、彼女は板に乗せられて川のほうへ運ばれていた——ネズミにである! うねうねとした錆色の流れが、板を順送りにして運んでいるのだ。  取り囲んだネズミの輪に追いやられ、芦毛《あしげ》までが、ちゃんと同じ方向に誘導されていた。 「ワイリーは? ワイリーはどこなのよ!?」  悲鳴をこらえ、ルフィは神殿の辺りに目をこらす。  花壇の中ほどで、ワイリーが立ち上がろうとしてもがいていた。  エンリコは、そのすぐそばまでたどり着いている。素早い動きでネズミの攻撃をかわし、剣をふりまわして波をかき分け、ワイリーに迫っていた。子爵の通ったあとには、サビネズミの死体で道ができている。 「あいつ……ワイリーを殺せば、ネズミがいなくなると思ってるんだわ!」  助けにいかないと! 萎《な》える足を無理にネズミたちの流れに踏み入れる。  と、錆色の流れが寄り集まって邪魔をする。  無理に板から降りようとすると、全身に飛びついてきそうだった。勇気が出ない。 「邪魔しないで! 味方なんでしょ!」 (個体ベルフィードは我々が港まで運ぶ。もう一つ個体を誘導しろと言われている。どれか?)  城で耳にしたあの声が、自分に話しかけてきた。一匹のネズミが話しているのではない。群全体から、なんとなく声のようなものが聞こえてくる。  もう一個体……? ニコラのことだ! 「事情が変わったの、あたし一人なのよ。それよりワイリーを助けて! 聞いてる?」 (『ルフィを連れて港へ行け、俺《おれ》には構うな』……ルストの盟主の命令だ。我々は契約外のことはしない。規則違反もしない) 「ワイリーは仲間じゃないの? 死んだらどうするの!」 (よくあることだ) 「あってたまるもんですか!」 (また産んで増やせばよい。我々はそうしている) 「この……!」  怖がってなどいられなかった。  鳥肌が立つのも構わず、キイキイ暴れる一匹を手づかみにする。  ルフィは、すうっと胸一杯に息を吸いこんだ。 「このわからずや! あたしはワイリーと一緒にいたいのよ! さっさと道を開けないと、あんたたちが何万匹いようが、このあたしが一匹残らず叩きのめしてやる! この出っ歯のバカネズミども! 一匹残らずだよ! それでも産んで増やせるってんならやってみろ!」  一瞬の静寂の後、広場を埋めつくしていた錆色の海は、あっさりと二つに割れた。  ルフィからワイリーまで、一直線に道が開かれる。  数万匹のサビネズミの群が、彼女の想像を絶する大声に恐れおののいていた。 (恐ろしい……) (この個体の行動は理解不能だ) (きっとルストの盟主を抱擁して、あのアイシテルとかいう意味不明の言葉を……) 「や、やかましいわね! それどころじゃないでしょ!」  怒鳴るが早いか、ルフィはクルクスを握りしめ、花壇めがけて走りだしていた。 「ったく、あきらめが悪いな……あんたは」  立ち上がったワイリーは、ネズミたちをものともせずに突っ込んでくる子爵を、半ば呆《あき》れたように見つめた。  ネズミたちが縄にかじりついているが、頼みの司法官たちは、まだ縛られたままだ。  自分はといえば、身体がだるく、立っているのがやっとという有様だ。 「死ねっ!」  エンリコが、もの凄《すご》い形相で斬り込んできた。  ハッグの弓で受けるが、何の役にも立たず二つに折られてしまう。  これで武器は一つもない。どうする? 護民官は助けたんだ、もういいか……。  ルフィの啖呵《たんか》が広場に響いたのは、彼があきらめかけたそのときだ。  とたん、無性に死ぬのが惜しくなった。 「聞いたか、子爵さんよ? この俺と『一緒にいたい』とさ。くそっ、死にたくねえな……」 「死にたくなかったら、このネズミどもを引き揚《あ》げさせろ」 「お断りだ」 「では死ね!」  にやりと笑って、エンリコが剣をふりかぶった。  ルフィが走ってくる気配がする。 「よけて、ワイリー!」  彼女がどうしたいかは手に取るようにわかる。ワイリーは右肩から地面に転がった。花を散らして柔らかい地面を転がる。  頭上で、剣を受け止める音がした。  次の瞬間、クルクスの妙技でエンリコが吹っ飛ぶ……当然そう思った。  だが、聞こえたのはルフィの悲鳴だった。斬り結んだとたん、子爵の身体からバラバラとネズミが降り注いだのである。  腰砕けになった彼女めがけて、剣が振り下ろされる。 「やめろ!」  転がった拍子に最後の武器を手にしていたワイリーは、エンリコの足に飛びついていた。 「邪魔だ」  傷ついた左肩を二度三度と蹴飛《けと》ばされ、気が遠くなるのを必死にこらえる。  ワイリーはそれ[#「それ」に傍点]をグイッと引っ張った。と、再び神殿の鐘が鳴りだす。  大きくふられた鐘は、ぎしぎしと妙な音をたてはじめた。  さっきの矢で、留め具が壊れていたのを、ワイリーは知っていた。 「へっ、どうやら神様はこっちの味方みたいだな」  金属製の巨大なクレニッスの花が、神殿の内部にずり落ちるのと連動して、エンリコの足がグン! と引っ張られる。針金を通してあった滑車が、双方の重みで次々に弾けとんだ。 「なんだ? なにをした?」  足もとをすくわれた子爵が、それに気づいたときはもう遅い。  ワイリーは、拾った針金を彼のブーッの足首にしっかりと巻きつけていたのだ。 「テオの仇《かたき》だ。思い知れ……」 「た、助けてくれ!」  ブーツを脱こうとしゃがんだとたん——びゅんと針金がうなったかと思うと、子爵は花壇を転がり、神殿の前の階段に叩きつけられ、尖塔《せんとう》の高みへと上がって、逆さまに宙|吊《づ》りになっていた。  彼の悲鳴が聞こえたのは、ほんの一瞬だった。  鐘が床に落下して、もの凄い音を立てたからだ。 「……やりすぎよ、ワイリー・マイス」  尖塔を見上げて、ルフィがつぶやく。 「死んじゃいねえだろ。あとは司法官にでも……」  そこまで言うと、ワイリーはゆっくりと目を閉じた。 「死なないで、ワイリー!」  ルフィがそう叫んでいるような気がしたが、もはや指一本、動かす力も残っていなかった。 [#改ページ]  終章 任務の終了    ㈵  悪夢は見てないようね……。  静かに寝息をたてているワイリーの額に浮いた脂汗をふくと、ルフィはため息をついた。  黙ったまま、寝台の脇《わき》に釘《くぎ》で固定された椅子《いす》に腰を下ろす。  薄暗い部屋の天井に開いている、明るい出入り口から声がした。 「いい天気ですよ、護民官。外のほうが気持ちいいのでは?」 「ありがとう。鎧《よろい》の掃除が終わったら行くわ」  そうは答えたものの、鎧の手入れなんてとっくに終わっていた。  ぼんやりと�針金ネズミ�を見つめる。  あのあと�灰色猫の館�に強引に連れてこられた医者は、ひどい怪我《けが》だが命に別状はないと太鼓判を押したのだ。大丈夫だとは思うけれど……。  することを思いついた彼女は、新しい丈夫な帯紐《おびひも》を取り出した。  クルクスを抜くと、鮮やかな朱色の帯紐をしっかりと結びつけ、巻いていく。  港での慌ただしい別れ際に、�灰色猫�から友情の証《あかし》に贈られた品だ。 �針金ネズミ�を頼むわね。それと……スースの仇を討って——彼女はそう言っていた。  ルフィには、彼女の期待に応《こた》える自信がある。犯人はわからないが、どうすればそれが見つかるかはわかっていたからだ。  不意に寝台のワイリーが声をあげた。 �トニの広場�で気を失ってから、丸一日ぶりにだ。  ルフィは、クルクスを放り出して寝台に身を乗り出した。 「気がついたのね」 「やけに揺れるな、怪我のせいか?」 「ガレー船の中よ。もうすぐルストにつくわ」  耳を澄ますと、規則正しいオールの音と、馬の嘶《いなな》きが聞こえてくる。 「嘘《うそ》だろ。馬が鳴いてるぜ」 「そりゃそうよ。馬も乗ってるんだもの。そのために、別の大きな商船を調達したのよ」  ルフィが詳しい事情を話して聞かせると、ワイリーは「そいつは面白《おもしろ》そうだ」と、彼女の企《たくら》みに大笑いし、傷の痛みで顔をしかめた。 「エンリコはどうなった?」 「確かに、まだ死んではいなかったわ。司法官が、あなたによろしくって」 「しめた! これでマスリックでの罪は帳消しだな」 「まあね。でも、この次はネズミなしの牢獄を用意しとくって」  ルフィは結局、司法官の前であんな啖呵を切って護民官らしからぬ醜態をさらしてしまった。  去り際にも、ニヤニヤ笑われて「どうやら、あなたは�針金ネズミ�の甘言にのせられてしまったみたいですね」とか言われてしまうし……んまあ、いくらかは事実だけど。  当のワイリーは、舌打ちして、ヘルドアではあと五年がどうとかブツブツ言っている。  微笑《ほほえ》みながら、ルフィは彼の耳元でささやいた。 「ワイリー・マイス?」 「なんだ?」 「お礼がまだだったわね——」  頬《ほお》の怪我のないところに、そっと唇で触れて、ルフィは言った。 「助けてくれてありがとう。今度はあたしの番よ、黒幕を暴いてやるわ」    ㈼  午後も遅い時間。  テラスには風もなく、生暖かい淀《よど》んだ空気が漂っていた。  プリニウス長官の役宅に集まった関係者は四人。  そのうち三人は、用意された椅子に腰掛けていた。彼らは、数時間前にルストに帰還した、ヘイズォト護民官の報告を聞くために集まったのである。 �耳�のお偉方の二人と、プリニウス長官を前にして、ルフィはグッと踵《かかと》を持ち上げた。 「お忙しいところ恐れ入ります」  略式のお辞儀ですませると、マリオルト一人がうなずいた。長官は闘技場の観客みたいに拍手でもしかねない雰囲気だし、デモクスは、ずっとこちらを睨《にら》んでいる。  そのデモクスが言った。 「我々の入手した情報によれば、ワイリー・マイスはヘルドアで死亡したとのことだが」 「ヘイズォト護民官、護送は失敗に終わったのだろう?」  尊大な副官とは異なり、マリオルトは興味をもったらしい。  彼は屈強な戦士だ。暴れられると厄介ね……これからのことを想定し、肝に銘じる。 「今更なんの報告があるのか、教えてもらおうか」 �耳�の長の言葉に、ルフィは満足げに微笑んだ。 「やはり知っておいででしたか、閣下。実は�耳�の力を試してみたんです」 「どういうことだ?」  デモクスが椅子から身を乗り出すが、彼女は後で説明するとだけ答えた。 「マスリックの子爵が、恐ろしいことを企んでいたと聞いているが?」 「いいえ」  ゆっくりと首を振ってから、ルフィは言った。 「ファブリアーノ子爵は、マスリック側の黒幕でしかありません。彼にマスリックの王位を約束した首謀者は、二年前[#「二年前」に傍点]と同じロマヌアの人間です。我が国の正義を貶《おとし》め、領土を得るために陰謀を巡らせていた人物がいます。この国のどこかに、ではなく……皆さんの中にです」 �耳�の二人は色めき立ったが、すぐにプリニウス長官が助け船を出す。 「報告を続けなさい、ヘイズォト護民官」  ルフィは、お偉方の前にいることも忘れて、腕組みしたままテラスの端《はし》まで歩いていった。  壁の外には、指示どおりの処置をした馬が引かれてきていた。  くるっとふり返ると、束ねた栗色《くりいろ》の髪が跳ねて、マリオルトの鼻先をかすめる。 「敵は常に、私の護送ルートを知って先回りしていました」  自分が初めから監視されていたこと、たび重なる襲撃を受けて護送を妨害されたことを、ルフィは簡潔に説明した。 「ワイリーは、ただの泥棒ではなく、フロス討伐戦争の原因となった、ある事件の重要な証人だったのです。この件については皆さんのほうが詳しいでしょうが……」 「なぜそう思うのだね、ヘイズォト護民官?」  目の端に笑みをたたえて、マリオルトが言った。興味深そうに瞳《ひとみ》の奥を光らせる。 「私に与えられた本当の任務は、犯人の妨害を阻止して護送を敢行することにより、首謀者をあぶり出すことにあったからです。事の真相を知らずに、このような任務を与えることはできない……ちがいますか、プリニウス長官?」  じろっと彼女が睨むと、老人が咳払《せきばら》いをした。 「その通り。私はマリオルトから相談を受けたし、お前の父上のことを疑問に思ってもいた」 「ふむ。だが、我々の中にスースの件の首謀者がいるというのは?」  真相が暴かれれば、引退や失踪《しっそう》を余儀なくされる議員や商人がたくさんいるはずだ。しかし、彼らは犯人に踊らされただけ。あのファブリアーノ子爵のように……。 「犯人は、明らかに�針金ネズミ�の証言を恐れていました」  ルフィに護送させた他の面子《メンツ》が、自分にワイリーを会わせると知っていたのだ。 「ところが、大胆にも犯人は、私の護送任務を、自分がマスリックで進行中の新たな計画に利用した……なぜなら、この任務自体を操ることのできる立場にいたからです」 「一番疑わしいのは私ということか。証拠はあるのかね、ルフィ」  タイミングよく、プリニウスが言った。 「二つほど」  そう言ってルフィがうなずくと、警備の兵士に支えられて包帯とギプスで身を固めた�針金ネズミ�が、テラスに現れる。  三人とも、すぐに彼が誰か気づいたようだった。  ルフィと視線を交わしたワイリーは、ゆっくりと一人の人物に目を向ける。  あの夜、指揮を執《と》っていた男に……。 「彼が�針金ネズミ�ワイリー・マイスです。任務に従い、連行しました」  ルフィが言った。 「ヘルドアで死亡したはずだ」  デモクスの言葉を無視して、彼女は続けた。 「�針金ネズミ�の死は、犯人の使った方法を逆手にとって私が流した偽の情報です。彼にしか伝わらない方法で……です。皆さんが知っていたということは、つまり……」 「�耳�を試したとはそういうことか」とマリオルト。 「はい」 「でたらめを言うな!」  デモクスが叫んだとき、もう一人、褐色の肌をした太った男がテラスに現れた。  プリニウスが立ち上がる。 「友人を紹介しよう。名はネウトス……腕利きの魔術師だ。ルフィに頼まれて呼んでおいた」 「以後、お見知りおきを……」  魔術師は、深々と�耳�の二人に頭を下げた。  ルフィが促すと、彼は少しの気後れもなくペラペラと説明を始める。 「このお嬢さんが想定した魔法は、現実に存在します。『他人の耳が聞いた音を、自分の耳で聞く』というものです。静かな場所でないと聞き取りにくいので、四六時中とはいかないが、これならハトより早く報《しら》せを届けられます。……」  ネウトスの長い解説が続いている間に、ルフィはテラスの階段から中庭に下りていた。 「二つ目の証拠をお見せしましょう。これは、�耳�からの支給品です」  そこには、芦毛《あしげ》の馬がいた。  ルフィは馬の耳につめてあった綿の耳栓をとって、�検知棒�をそっと右耳に差し入れる。  事前に音を聞かれないようにそっと試してあったが、魔法は右耳にかけられていた。瀕死《ひんし》のヒルダがルフィの右耳に触れたのは、これを伝えたかったのかもしれない。  引き抜いた�検知棒�の先端が、まばゆい光を放つ。 「ま、魔法がかかっているのか? 耳に!」  マリオルトが、初めて冷静さを失った。  ルフィはうなずく。 「この馬を、あらかじめマスリックの商館に手配できた人物は、ここにしかいません」  今後は、盗聴を防ぐために馬の検査手順を一つ増やさなくてはならないだろう。  魔法は耳の内側にかけられていたのだ。芦毛のそばでワイリーとした会話は、すべて聞き取られていた。犯人は右耳で聞いたことを、馬と同じ魔法をかけた自分の左耳で、偽者の�針金ネズミ�に伝えていたのだろう。だからハッグは、�灰色猫の館�に先回りできたのだ。 �トニの広場�でワイリーが倒れたあと、ルフィは芦毛のそばで彼が死んだような言動をくり返した。そして、商館には寄らず、司法官に頼んで別の船を調達したのだ。 「ごめん、許してね」  謝っておいて、馬の右耳をつかむ。  ルストまで運んだのは、証拠にするためではない。事件の黒幕に文句を言ってやるためだ。 「絶対に許さないっ! ロマヌアの悪魔はあんたのことよっ! この恥知らず!」  ルフィは馬の耳に、スース村の人々と謀殺された父に代わり、怒りをぶちまけた。  数万匹のサビネズミを怯《おび》えさせた大音声が耳元で炸裂《さくれつ》し、芦毛が泡を吹いて暴れる。  テラスにいた人々も、反射的に耳を押さえていたほどだった。ただ一人をのぞいては。 「やっぱり、こいつだったか。覚えてるぜ……俺《おれ》を殺せって言ったのは、この顔だ」  耳栓を外しながら、ワイリーが言った。  右耳を押さえて床にくずおれていたのは、デモクスだった。  階段を上ったルフィは、捕縛用のロープで素早く縛り上げる。  プリニウスにロープを差し出すと、彼女は胸を張って言った。 「今の反応が三つめの証拠……長官、この男が犯人です」 「そのようだな。この男は、毎日うちの書庫にこもっては何やらやっておった。あそこで聞き耳をたてていたのだろう。さて、どうするね、マリオルト?」 「有能な部下を失うのは残念ですが……」  ぼそりと言って、マリオルトがルフィが縛り上げたロープをつかむ。 「諸君、ロマヌアの平和のため、この件については他言無用に願おう」 「何するの? あたしが捕まえたのよ!」 「この者の処分は、あくまで�耳�内部で決めさせてもらう。よろしいですな、先生」 「まあ、しかたあるまい。ルフィ、くれてやれ」 「そんな!」  手柄なんかどうでもいいが、デモクスは�耳�が集めた情報を自分の力と過信して、大勢の命を奪っているのだ。 �耳�自体の是非を問うべきじゃないの!? 「ヘイズォト護民官、上司の命令だ。渡したまえ」  マリオルトがロープを奪いとる。 「卑怯者《ひきょうもの》!」  ぱん! と音をたてて、ルフィの平手が彼の頬《ほお》をはたいていた。  岩を殴ったような感触。  彼は微動だにしなかった。 「なにか誤解があるようだな。君はロマヌアを救ったのだ、誇りに思っていい。本当に感謝しているよ……クレニッスのお嬢さん」  そう言うと、�耳�の長は、デモクスを連れて去っていった。    ㈽  日が暮れて夕焼けに染まったテラスには、護民官二人と泥棒だけが残されていた。 「長官が、あんな腰抜けとは知らなかったわ!」 「�耳�ってのは、ああいう連中なんだ。国王の親族を殴って、おとがめなしってだけでも、ありがたいと思いな」 「だからって……」  今さら表沙汰《おもてざた》にしてもロマヌアのためにならないという理屈はわかる。しかし、�耳�の不始末を処理するのに護民官が利用されたのだ。とてもじゃないが、彼らとは今後うまくやっていけるとは思えなかった。  納得のいかない顔で黙りこむルフィ。  プリニウスは逆に上機嫌だった。 「わかっとらんな。いいか、ルフィ。マリオルトは護民官を頼るしかなかった。デモクスのような輩《やから》が暴走しても、�耳�では誰が裏切り者か見つけられないと自ら認めたのさ」  呆気《あっけ》にとられ、ルフィは老獪《ろうかい》な護民官の長を見つめた。 「……それって、�耳�に貸しを作ったってこと?」  当然とばかりに、プリニウスはうなずいた。 「正義を貫くにも強《したた》かさは必要だ。そんなこと護民官なら一人でもできる。私はそう請け合った。実際、お前さんは、たった一人で完璧《かんぺき》に任務を果たした。上出来だったな、ルフィ」 「そ、それほどでも……」  ようやく任務を終えた実感が湧《わ》いてくる。長官に手放しで褒められるなんて、もしかしたら初めてかもしれない。  だけど——とルフィは思った。一人では、やり遂げられなかった。  ワイリーがいたから……。 「あっ!」  彼女は、�耳�なんかよりもっとずっと大切な用件を思い出した。 「長官、ワイリーはどうなるんですか?」  やっと思い出してくれたかと言わんばかりに、�針金ネズミ�がため息をついた。 「ったく、五体満足ならとっくに逃げてるとこだぜ」 「ああ、それなんだが……」  と、腕を組むプリニウス長官。  二人が見守っていると、彼は肩をすくめて言った。 「どんなに軽く見積もっても、縛り首だな」 「嘘《うそ》でしょ?!」 「捜査に協力したのにかよ!?」 「残念だったな。二十五万七千五百コレクタを国庫に返せるなら問題ないが……」 「返せるわけねえだろ!」 「ロマヌアの法廷は、一度決まったことを覆すのは難しい。逃げれば罪はさらに重くなるぞ。そうなると、縛り首どころではすまなくなる」 「どのみち、死刑なんだろが!」 「まあ、そうだが」  どうすりゃいいんだ……?  ワイリーは、ちらっとルフィに目をやる。そこには、頭の中の法律書をめくっている少女がいた。まったく、泥棒にとっては頼りになる相棒だ。 「大丈夫よ、ワイリー・マイス」  彼女は、にっこり笑って言った。 「プリニウス長官、彼を縛り首にはできませんよ」 「ほう、そりゃまたどうして」  上司の問いに、ルフィは意地の悪い笑みを浮かべた。 「ベルフィード・クレニスス・ヘイズォト護民官が、三日前にワイリー・マイスを護民官助手に任命しているからです」  プリニウスは呻《うめ》いた。 「むう……正義を貫くのにも強かさは必要とは言ったものの、さっそく実践してくるとは」  なんのことやら、ワイリーにはさっぱりわからない。 「護民官助手だったら、どうなるってんだ?」 「任命した護民官の承諾がなければ、護民官助手は勝手にやめさせられないの。ってことは、あなたを殺せないってことよ」 「待てよ、それはつまり……」  ワイリーは、しばらく考えてから言った。 「俺は一生、あんたの助手ってことか?」 「なによ、嫌なの? べつにやめたっていいのよ」  ルフィが、ちょっと頬をふくらませる。 �針金ネズミ�に、選択の余地はなかった。 [#改ページ]  エピローグ  薄暗い部屋に、カサカサとネズミの走り回る音がする。 (盟主よ、早く起きたほうがいい) 「う〜ん」  ワイリーは眠ったまま返事をした。  小さな護民官事務所の屋根裏……そこが彼の寝床だった。  もうじき、ルフィが出勤してくる時間だ。 (�クレニッスの花�が迫っている。今、通りを渡ったところだ)  ルストのサビネズミたちが名付けた、ルフィの二つ名だ。 「もう少し寝かせろ」  汚いベッドにうつ伏せになったまま、またいびきをかきはじめるワイリー。 (昨夜の段階で、『起きない場合、股間《こかん》に噛《か》みついて起こせ』と�クレニッスの花�に依頼されている。実行に当たって盟主に再確認したい。異存はないか?) 「ある!」 (肯定……)  階段を上がってくる気配を察知して、サビネズミたちは壁穴に消えた。 「ワイリー、起きなさい! 事件よ!」  ノックもせずにバンと大きな音をたててドアが開いたかと思うと、ルフィが飛びこんできた。  すかさず「いましばらくの眠りを約束する罠」が作動して、針金の輪が足元で跳ね上がる。  が、ルフィは、クルクスの一振りで針金をあっさりかわしていた。 「護民官助手なんですからね! 事件と聞いたら、しゃんとしてよ!」 「やれやれ、こんなことならいっそ縛り首になってたほうがよかったんじゃ……」 「ぐずぐず言わない!」  花を選ぶか、死を選ぶか——選択の自由がある人生(ただし二択!)。  これは、きっとミトゥン神の罰なのだ。  最近、ワイリーはそう思うようになった。あのときヘルドアで、神殿のクレニッスの鐘を射《う》ち落としたとき、うっかり誓ってしまったではないか……。  もそもそと寝床を出て大|欠伸《あくび》をする。  目を開くと、ルフィの灰色の瞳が心配そうにのぞきこんでいる。 「昨日は? よく眠れた?」 「ああ、夢も見ずに[#「夢も見ずに」に傍点]。ぐっすりとな[#「ぐっすりとな」に傍点]」  まあ、それなりに甘美な罰でもあるんだが——と、ワイリーは思った。  ワイリー・マイスは、自他ともに認める腕利きの護民官助手だ。  錆色《さびいろ》の血族と契約を結び二十四匹までのサビネズミを二十四時間まで拘束し、使役できる。  彼はもう、悪夢という名の牢獄に閉じこめられてはいなかった。  新たな人生が始まったのだ。  もしかしたらそれは、悪夢より辛《つら》いことかもしれなかったが。 [#改ページ]  あとがき  ——おはよう、ベルフィード護民官。さっそくだが、任務を伝えよう。ルフィ、今回、君にやってもらうのは犯罪者の護送だ。隣国マスリックに投獄されている我がロマヌアの犯罪者を、ルストまで無事に運んでもらいたい。名前は通称�針金ネズミ�、彼は凄腕《すごうで》の泥棒で脱獄の名人でもある。護送に際しては、君の慎重かつ大胆な対応をのぞむ——  もし、本編を読まずにこの文を読んでいる場合、このまま速やかに本編に移ることをお勧めする。なお、この羊皮紙は自動的に消去されるので……  ……と、お久しぶりでございます(初めての人は、はじめまして。以後お見知りおきを!)、謎《なぞ》のメカ侍、伊豆平成《いずのひらなり》です。  ご縁と機会がありまして、今回はファンタジーものを書かせていただきました。  これがオリジナルのデビュー作、ということになります。非常に感動しております。  それもこれも快刀乱麻を読んでくださった皆々様のお陰……本当に本当に、ありがたいことだなあと思っております。  では、本編に関連した話をいくつか——。  護民官というのは古代ローマに本当にあった役職ですが、ルフィの職業とは全くの別物です。まあ、平民の利益を守るために頑張る、ってとこは似てなくもないですが……。  こちらの護民官は、むしろ、時代劇の同心や岡っ引きと、西部劇の保安官を足して二で割ったようなものです。護民官助手だの護民官事務所があったり、ルフィの使う武器が十手だったりしますので。  ルフィの使う得物、クルクス・マヌアールスの名付け親は、私のラテン語の先生、新城カズマ氏です(感謝!)。意味としては「手の中の十字(架)」といった感じ。  他にもあちこち雰囲気作りにラテン語を使ってますが、あまり細かいことは気にしないでください。なにしろ主人公の一人にしたってワイリーですから(おもいっきり英語だ……)。  タイトルを本物の護民官の「トリビューン」でなくしたのも、その辺の違いがあって言い方を変えようかなあと思ったからです。「パトローネ」は「保護する人」「名護民官」の意味で使っています(カメラのフィルムの容器をこう呼ぶと、あとで知りました)。なお、キリスト教っぽさをもたせる意図はありません。ロマヌアもマスリックも多神教ですので……。  そういえば、作中にミトゥンとラノートという二柱の神様が出てきますが、これは「カナン」という架空の神話から、原作者の田中桂氏の許可を得て拝借したものです(感謝!)。  詳しくは、カナンのサイト、「http://www.toride.com/~denkow/」をのぞいてみてください。  作品にやたらと登場するので、うすうす察しているとは思いますが……私は銭湯やら温泉やらが大好きです。風呂《ふろ》で考え事をすることも多く、筆が止まるたびに風呂に入れたらいいなあと思うほどです(ロマヌアの設定も、公衆浴場のしくみばかり細かく決まってたりします)。  もっとも、ルフィみたいに湯に浸《つ》かればスラスラと答えが出てくるわけではありません。  今回の執筆も、これまでになく苦戦してしまいました。書きあげるまでゲーム断ちしたので、買ったばかりのプレステ2は何ヶ月もただの箱と化す始末。やっぱり、げん担ぎにカキアゲ丼を食べるべきでしたな……はは。  機会がありますれば、次回はきっちりこなしたいなあと思っております。御意見・御感想など、お聞かせくださいませ。  なに? ページに、まだ若干の余裕が? では、この場を借りて宣伝を……。  プロフィールのところにある「日本バカカード協会(日バ)」というのは、「バカカード」という、簡単だけど奥の深い遊びをして楽しむただそれだけの会で、いつでも誰でも入会できます。果てしのないバカバカしさを味わいたい方、詳しく知りたい方は、サイトをのぞいてみてください。アドレスを入力するのが面倒くさいときは、「バカカード」で検索すれば簡単に見つかると思います。  最後にお礼をば。毎回お世話になっております小笠原さん(いやはや、今回は特にご迷惑をおかけしました)、イラストのOKAMAさん(初めまして!)、閉店間際の迷惑な客にもかかわらず美味《おい》しい料理を楽しませてくださる「ふらいぱん」のシェフ(また火曜日に行きます)、そして、猛暑の中プロットで苦しんでいる私にパワーをくれたMさん(最近メールがこなくて、ちょっと寂しいです)……この本ができたのは、皆様のおかげです。  本当に、ありがとうございました。 [#地付き]「メカ侍でも、生き血は赤い!」 伊豆平成 [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫  PATRONE パトローネ 護民官《ごみんかん》ルフィ&ワイリー  著者 伊豆平成《いずのひらなり》  平成十三年一月一日初版発行  発行者——角川歴彦  発行所——株式会社角川書店 [#地付き]2008年5月1日作成 hj 底本のまま ・!? ?!